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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
その夜、月椿堂の階段を上がる足取りは重かった。
モンジェは台所で鍋を混ぜていたが、娘の顔を見た途端、妙に明るい声を出す。
「今日は肉だ! 落ち込んでても腹は減る!」
「そういう日もあるけど、今日はちょっと違う」
「じゃあ多めに食え」
笑ってしまいそうになったが、笑いきれない。
クリストルンは食事のあと、自分の部屋ではなく押し入れの前に座った。
母の嫁入り道具の箱。
第2話の夜にリボンを取り出した、あの木箱だ。
なぜだか分からない。
けれど、今日の悔しさはそこへ向かわせた。誰かに奪われたなら、取り戻すしかない。父が隠してきたものも、母が残したものも、ちゃんと見つけたいと思った。
箱を膝にのせ、布を外し、ふたを開ける。
櫛、小物入れ、布袋、古い便箋。
どれも前に見たままだ。
「……何か、ある気がするんだけど」
底を指でなぞる。
木目の端に、わずかな段差があった。
息をのんで、爪先を差し込む。
かち、と小さな音がして、底板が持ち上がった。
「え……」
二重底になっていた。
中から出てきたのは、薄いノートと、押し花のように平たくなった椿の花びらを挟んだ栞だった。ノートの表紙は古びていたが、角が大切に撫でられてきた跡がある。
クリストルンはそっと最初のページを開く。
そこに書かれていた文字を見て、息が止まった。
椿のリボン
まるで最初から、今の自分に向けて置かれていたみたいに、その題名は静かにそこにあった。
次のページには、耳の縫い方、抱いたときの重み、音をしまう位置らしき走り書き。まだ完成前の設計だと分かる。それでも、これはただの思いつきではない。誰かが本気で作ろうとしていた痕跡だった。
「お父さん……?」
呼んだわけでもないのに、その名が出る。
そのとき、襖の向こうで床が鳴った。
モンジェが来たのだと分かる。けれどクリストルンは、すぐには隠さなかった。
見つけてしまったものの重さを、もう一人で抱えきれなかったからだ。
襖が少し開く。
立っていた父は、ノートを見た瞬間、顔を変えた。
クリストルンは震える声で言う。
「これ、何」
モンジェはすぐに答えなかった。
いつものように笑い飛ばすこともできないらしい。
春の夜の静けさの中で、椿の花びらだけが、紙にはさまれたまま赤く沈んでいた。
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