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#現代ファンタジー
るるくらげ
青い光が堂内を呑み込む寸前、ロビサははっきりと声を出した。
「ハディジャ」
呼んだだけで、鏡のうなりが変わった。
拒むような、認めるような、どちらともつかない震えだった。百年間、偽の儀式文で塗り固められてきた鏡にとって、今ここにある名は都合が悪いのだ。器でも花嫁でもなく、いま生きている人間の名。誰かの代用品ではない名。
ロビサはためらわず、最後の行の空白へ針を走らせた。
『ハディジャ』
鏡面へ刻まれた文字が、青白く燃える。
同時に、祭壇の前でハディジャが息をのんだ。喉元を這っていた黒い封印文字が、そこだけ灼けたように赤くなり、次の瞬間、皮膚の下から何かが引き剥がされるみたいに逆巻いた。
「ぐ……っ!」
膝をつきかけた彼へ、鬼王の核の影が背後から覆いかぶさる。
輪郭のない巨体は、怒りの塊のくせに、泣き声みたいな音を立てていた。奪われた名、消された記憶、置き去りにされた痛み。百年分の澱が、ようやく出口を見つけかけて暴れている。
『違う』
鏡の底から声がした。
『それは器の名にすぎない』
「違わない」
ロビサは言い返した。
「この人が、自分で名乗ってきた名です」
ハディジャは苦鳴のあいだから、かすれた笑いをもらした。
「……勝手に決めたみたいに言うなよ」
「では違いますか」
「違わねえ」
彼は顔を上げた。額に汗を浮かべ、唇の端を切らしながらも、その目だけはいつものままだった。
「俺は、ハディジャだ」
その一言で、鏡面の空白がもう半分、ひらいた。
対なる二名を誤りなく記せ。
針先がそう告げる。
ロビサは一瞬だけ息を止めた。
百年前にこの場所までたどり着けなかった二人の気配が、薄い光となって背後に立つ。若い記録官。鬼になりかけた青年。互いを救おうとして、最後まで名を書ききれなかった二人。けれど、ここにいるのはその続きではあっても、そのままではない。
同じ結末をなぞるために来たのではない。
別の終わらせ方を選ぶために来たのだ。
ロビサは、自分の胸の前へ記録針を引き寄せた。
手の震えはまだ残っている。怖くないわけがない。自分の名を書き込む行為が、花嫁の儀式へ呑み込まれない保証など、どこにもなかった。
それでも、逃げる理由にはならない。
「見えてしまうのなら、見捨てない人になればいい」
レイノルデの声が、胸の底で静かに響いた。
あのとき救われた言葉が、今度は誰かをつなぎ止める側へ背を押す。
ロビサは最後の空白へ、自分の名を記した。
『ロビサ』
文字が刻まれた瞬間、鏡の中央へ深いひびが走った。
割れたのではない。百年ものあいだ上塗りされていた偽の儀式文だけが、表面から剥離していく。花嫁、供物、鎮静、服従。そうした単語が青い虫みたいに蠢いて浮き上がり、一つずつ燃え尽きる。代わりに現れたのは、もっと古く、もっと静かな文字列だった。
名を返せ。
正しく記せ。
奪うのではなく、つなぎ止めよ。
堂内へ風が吹き抜けた。
鏡から都へ伸びていた光の糸が、今度は逆向きに震えだす。引き剥がしていた名が、持ち主の方へ戻り始めたのだとわかった。
段下で、誰かが泣いた。
騎士の一人だった。若い男は床へ手をつき、呆けた顔でつぶやく。
「……母さんの名前……」
その横でも、もう一人が剣を取り落とした。
「妹の声、思い出せる……」
レドルフが大広間の中央で息を吸う。
彼は誰かに命じられる前に、都中へ響くような声で名前を読み上げ始めた。これまで被害記録局がつなぎ止めてきた死者の名、忘れられかけた者たちの名、家へ帰れなかった者たちの名。ひとつ読むたび、堂内の空気が少しずつ軽くなる。
ヴィットリアーナは証拠箱を抱えたまま、段上の騎士たちへ鋭く命じた。
「討鬼騎士団、監察院名義で命じます。これ以上の強制起動に加担した者はその場で拘束。都へ戻る記録班は住民の記憶混乱を洗い直して」
いつもの冷たい口調なのに、今はその冷たさが頼もしかった。
モンシロも負けじと怒鳴る。
「現場班、負傷者から運べ! 鏡を見るな、名前を呼べ! 呼びながら連れていけ!」
エナシェは倒れた騎士へ薬湯の小瓶を投げ、ニッキーは巻物を抱えたまま崩れかけた台座の固定具を外していた。リュバはロビサの予備針を手に、次の崩落へ備えている。誰か一人の働きではなかった。ここまで来たのは、何度も同じ鍋を囲み、何度も同じ夜霧をくぐってきた全員の足だった。
それでも、まだ終わっていない。
鬼王の核が最後の抵抗みたいに膨れ上がる。
名を返されれば、鬼は鬼の形を保てない。けれど、長く奪い続けてきた側からすれば、それは死と同じだ。巨大な影は悲鳴とも咆哮ともつかない音を放ち、ハディジャの背へなおもしがみついた。
【続】
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