テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
伊藤が探偵社に来る前、何をしていたか。
それを正確に知っている人間は、ほとんどいない。
履歴書に書かれていたのは、簡潔な経歴だけだった。
・法学部卒
・法律事務所勤務
・出版社資料部
・フリーの調査補助
どれも、特別ではない。
どれも、珍しくはない。
だが、時系列で並べると、妙に噛み合っていた。
最初に関わったのは、十数年前の地方の傷害事件。
伊藤は当時、弁護士事務所で記録整理の補助をしていた。
若手の事務員として、
・供述調書
・実況見分調書
・証拠一覧
をまとめる役割だった。
表に出る仕事ではない。
だが、事件の全体像を、誰よりも早く、誰よりも正確に把握できる立場だった。
その事件では、
「争点が分かりにくい」
「説明が複雑だ」
という理由で、伊藤が作った整理用のメモが、そのまま関係者に回された。
結果、
説明は一つに揃い、
報道は最小限になり、
判決文は簡潔になった。
誰も、それを問題だとは思わなかった。
次の事件では、出版社にいた。
事件を扱うノンフィクション企画の資料担当。
取材対象者に渡す事前説明資料を作る仕事だった。
「事実確認のため」という名目で、
・年表
・人物関係図
・想定Q&A
を整える。
結果、取材を受けた人間は、
ほぼ同じ言葉で、
ほぼ同じ順序で、
出来事を語った。
記事は破綻しなかった。
むしろ「読みやすい」と評価された。
三つ目の事件では、フリーだった。
被害届が出ていない案件。
だが、関係者の人生が壊れていた。
伊藤は「調査補助」として入り、
・過去の記録
・内部資料
・噂話
を整理し、残らないものと残すものを分けた。
結果、
法的には事件ではなくなり、
誰も責任を負わず、
それでも依頼人は納得した。
四つ目の事件では、
すでに犯人が名乗り出ていた。
伊藤は、供述を文章化する役だった。
動機は、本人の言葉通りに書いた。
ただし、
他の可能性を示す要素は、すべて「不要」として外した。
結果、
事件は早期に終わり、
余計な波紋は生まれなかった。
そして五つ目。
裁判記録が異様に短い事件。
伊藤は、過去のどの立場でもなく、
探偵社の事務担当としてそこにいた。
違うのは、
今回は、整理する側だけでなく、
それを見抜こうとする人間が、すぐそばにいたことだった。
伊藤の過去は、
犯罪歴でも、黒い裏稼業でもない。
ただ一貫しているのは、これだけだ。
伊藤はいつも、
「説明が必要な場所」にいた。
裁判の前。
報道の前。
証言の前。
調査の前。
事実が固まる直前に。
そして、
「残りすぎない形」に整える役を、
誰にも頼まれず、
誰にも止められず、
続けてきただけだ。
探偵社に来た理由も、特別ではない。
事件を解決する場所。
記録を残す場所。
そして、余白が生まれる場所。
伊藤にとって、
それは、ずっとやってきた仕事の延長だった。
だから――
五つの事件すべてに、伊藤が関わっていたとしても。
それは、偶然ではない。
陰謀でもない。
ただ、
そういう経歴の人間が、
そういう位置に、
自然にいただけだ。
余白は、今日も静かに残されている。
それが誰のためかを、
もう、問う人はいない。