「雪子さん、もう時間ですよー」
「あっ、山本君、ありがとう! こちらのお客様が終わったら交代しますね」
雪子は『スーパーアイリス』のレジで接客中だった。
幸い、客はキャッシュレス決済だったので会計はすぐに終わった。
雪子は笑顔で、
「ありがとうございました。またお待ちしております」
そう言って深々とお辞儀をした。
スーパーのパート店員にしては丁寧過ぎるその応対に、客は満足そうにレジを後にする。
レジでの交代作業を素早く済ませた雪子は、
その場を山本に譲った。
「山本君、じゃああとはよろしくね」
「あっ、雪子さん、今度の金曜日のシフト変更、本当に大丈夫ですか?」
「私が遅番ですよね? はい大丈夫です」
雪子がにっこりして答えると、
大学生でアルバイトの山本が嬉しそうに言った。
「助かります!」
「彼女の誕生日なんでしょう? 楽しんできてね!」
「はいっ、ありがとうございます」
雪子は「じゃあね」と言って、ロッカールームへと向かった。
途中、パートの同僚達と挨拶を交わしながら
店のバックヤードを通り抜ける。
彼女の名前は浅井雪子、50歳。
雪子がここで働き始めて三ヶ月が経とうとしていた。
仕事にはもうすっかり慣れ、一通りのルーティーンを全て一人でこなせるようになっていた。
雪子は以前、大手デパートで正社員として働いていた。
短大を出た後、デパートに新卒で就職し三年勤めた後結婚退職をした。
しかし30歳の時に離婚をし、一人息子を育てていく為に再び同じデパートへ契約社員として入る。
当時の上司がまだそのデパートにいたので、
上司の計らいにより雪子はまた正社員へ戻る事が出来た。
しかし、長引いた不景気や感染症の影響等により、
デパートはどこも厳しい状態が続いていた。
雪子が勤めるデパートは今年の三月をもって閉店となり、
正社員の半分は東京にある本店や地方の店への転勤、そして残りの半分は関連会社への出向、
その他の契約社員やアルバイト達は転職を余儀なくされた。
当時正社員だった雪子は、富裕層を対象とした『外商部』にいた。
その長年の経験を買われ、都心にある本店へと誘われたが、雪子はそれを辞退した。
なぜ辞退したかというと、自宅が鎌倉なので都心までの通勤時間がかかり過ぎる事と、
ちょうど更年期にさしかかり体調が良くない日が続いていたので、
満員電車での長時間通勤には自信がなかった。
だから有難い誘いではあったが、丁重にお断りした。
……というのは表向きの理由で、本音は次のようなものだ。
本当は、別れた夫が都心の本店で働いている。
そして夫が不倫をしていた相手も、現在その店で働いていた。
本店へ異動した仲の良い同僚から、二人の様子は時折聞いていた。
雪子が夫と離婚した後、てっきり二人は結婚すると思っていたが、
どうやら結婚はしていないらしい。
今現在二人がつき合っているのかどうかはわからないが、
とにかく、その二人と顔を合わせる場所では働きたくなかった。
そんな環境へ自ら飛び込む事なんて、あえてストレスを抱えに行くようなものだ。
本当は定年まで正社員でいたかったけれど、考えに考えた末、雪子は退職という道を選んだ。
幸い、雪子は今一人暮らしだ。
介護していた父は5年前に他界し、離婚当時5歳だった息子の和真も
社会人となり都内で一人暮らしをしている。
和真にデパート閉店と退職の事を話すと、
「お母さんは今まで頑張って働いたんだから、のんびりするのはいいと思うよ。
なんだったら鎌倉の家を売って東京に出てくれば?」
と言ってくれたが、雪子は鎌倉生まれの鎌倉育ちなのでなかなかここから引っ越す勇気が出ない。
いずれは家を処分して、一人でこじんまりと暮らせる場所へ引っ越したいとも思うが、
今は行動に移せないでいた。
この先の暮らしにかかる費用をざっと計算してみたところ、
自分一人が食べて行くだけなら、パートでもなんとかなりそうだという事がわかった。
家賃はかからないし、貯蓄も多少はある。
雪子は一人っ子だったので、父から相続した遺産も少しある。
そしてパートを探し始めた時、たまたまこのスーパーの求人を見つけた。
この店は雪子も度々利用していた店で、従業員同士の雰囲気がいつも和気あいあいとしていて
職場環境がとても良さそうだと感じていた。
だから迷わずすぐに応募をして面接に行くと、その場で採用が決まった。
いざ働き始めると、思っていた通り皆とても良い人ばかりだった。
そして働き始めて三ヶ月が経過した。
特にストレスもなく、毎日気持ち良く働かせてもらっている。
雪子は通路の途中にある従業員専用の冷蔵庫から、
昼休みに買い物をしておいた食材を取り出し、ロッカールームへ向かう。
明日は仕事は休みだから、エプロンは家で洗濯しよう。
そう思い、外したエプロンをバッグへ入れた。
そして、ロッカーの扉についている小さな鏡で髪を整えると扉を閉めて出口へ向かった。
遅番で出勤して来た従業員と挨拶を交わすと、タイムレコーダーへ従業員カードを通した。
そして、店の裏手にある従業員通用口から外へと出た。
コメント
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年代が私と近い主人公、それにわかりやすい文章でサクサクと読めます