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#現代ファンタジー
るるくらげ
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そのころハディジャは、監察院の別室で素直に保護される種類の男ではなかった。
応急処置を受け、薄い寝台の上へ座らされた時点で、彼は窓の位置と廊下の人数と、鍵穴の癖を見終えていた。監察院の若い書記官が水差しを置いて去り、見張りの足音が角を曲がったところで、ハディジャは右手の甲を見下ろす。浮かび上がった黒い文字は薄くなったが、完全には消えていない。
「器候補、ね」
気分のいい響きではなかった。
まるで、中身を入れる前提で作られた空っぽの壺みたいだ。
寝台の端へ置かれていた返却前の記録図面を、彼はもう一度開いた。倉庫見取り図の隅に重なっていた封印の流れ。その線は監察院の古い搬入口を経由し、王城北壁の地階へ向かう筋へ似ている。似ている、ではなく、同じ職人が引く癖の線だ。荷運びと修理で壁裏を歩き回ってきた人間には、わかることがある。
「俺の顔に落書きしたやつの巣が、だいたい見えた」
鍵を外すのに、長い時間はかからなかった。
監察院の廊下を抜け、使用人用の階段を下り、古い物品庫を横切る。紙と糊の匂いが濃くなる方角へ進めば、王立禁書庫へ荷を入れる裏通路へ出るのは案外簡単だった。簡単すぎるのは、ここ百年ほど誰も、禁じられた本を盗みに来る馬鹿より、正規の権限で改竄する連中を信用しすぎていたせいだろう。
禁書庫は静かだった。
しんと、というより、音が吸われる。高い棚、鎖で留められた帳面、封蝋の匂い。ハディジャは咳払いひとつ飲み込み、右手の疼きに引かれるまま奥へ進んだ。
最下段の閲覧卓に置かれていたのは、閲覧申請待ちのまま戻されていない古文書束だった。上から三冊目へ触れた瞬間、手の甲の文字がじり、と熱を持つ。
開いた頁には、人体図にも武具図にも見える、薄気味の悪い線描があった。
胸骨の位置、喉、両眼、手首。そこへ封印記号が重ねられ、余白へ細い字で書かれている。
『鬼王の核を受ける器候補』
思わず舌打ちが漏れた。
さらに頁を繰る。瘴気耐性、迷深部での正気保持、名の揺らぎへの反応――書かれている条件は、嫌になるほど自分へ寄っていた。
そして最後の折り込み図を開いたとき、ハディジャの背筋を何か冷たいものが走った。
そこには若い男の横顔が描かれていた。
輪郭。眉のかかり方。笑っていないときの口元。
鏡へ自分を映したときに見る顔と、あまりにも似ている。
「……冗談だろ」
呟いた声へ重なるように、耳の奥で別の声がした。
――まだ、終わっていない。
息が止まる。
書庫の冷気とは別の寒さが首筋を撫でた。
次の頁には、さらに細い走り書きが残っていた。乱れた筆跡で、しかし必死に縋るように。
『器へ名を重ねるな。彼は彼のまま残せ』
その一文だけが、他の記述と明らかに違っていた。指示でも命令でもなく、誰かの願いだった。
ハディジャが指先でその行をなぞった瞬間、書庫の壁際の燭台が一斉に青く揺れた。視界の端で、見知らぬ石造りの廊下と、血のついた手と、泣いている誰かの背中が閃く。
自分の記憶ではない。
それでも胸が潰れそうになるほど近い。
「おい、勝手に入るなよ……」
吐き出した声は、自分へ言ったのか、頭の中の何かへ言ったのかわからなかった。
だが、その場に立ち尽くしている時間はない。
図の束を抱えたまま踵を返したところで、外から鐘が鳴る。
一打。
二打。
三打。
禁書庫の窓は小さい。けれど城側の広場から響いてくる声は、いやでも聞こえた。
『王命により告げる。国宝・蒼い鏡の本体は、三日後の正午、地下聖堂にて正式開封される』
続く文言は、花嫁、鎮魂、都の安寧。
美しく整えられた言葉ばかりだった。
だがハディジャには、処刑の日時を読み上げているようにしか聞こえない。
*
同じ鐘の音は、学院裏の煉瓦棟にも届いた。
ロビサは窓際へ駆け寄り、夜気に震える広場の方角を見た。遠くの塔へ掲げられた王家の旗が、夜霧の向こうで鈍く揺れている。
レイノルデは椅子から立たず、その放送を最後まで聞いた。
「想定より早いな」
「三日後なんて……」
「向こうも急いでいる。封じるためではなく、決めてしまうために」
ロビサの胸へ、嫌な確信が落ちていく。
蒼い鏡は国宝である前に、改竄された記録の本体だ。そこへ正式な儀式の名を与えられれば、偽りがさらに本物らしく塗り固められる。
「先生」
ロビサは振り返った。
「私、逃げません」
「知っている」
「でも、一人では行きません」
「それも知っている」
その答えが返る前提で言ったみたいに、レイノルデは机の引き出しから古びた通行札をひとつ取り出した。王立禁書庫の旧閲覧許可札だった。
「今夜、なくしものを拾いに行く顔をしている」
ロビサは札を受け取り、目を見開いた。
教官は、すでに次の行き先まで読んでいる。
「見えてしまうのなら」
レイノルデが、昔と同じ声音で言った。
「見捨てない人になれ」
ロビサは強く頷いた。
湯気の残る机を背に、煉瓦棟の扉を開く。夜気は冷たい。それでももう、さっきまでの冷え方とは違っていた。
三日後、蒼い鏡が開く。
ならばその前に、奪われた記録と、ハディジャの中へ重なろうとしている名の正体を掴まなければならない。
石段を駆け下りる靴音が、夜霧の都へ鋭く伸びた。
【終】