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#現代ファンタジー
るるくらげ
蒼い鏡の開封が三日後へ決まった翌朝、被害記録局の中庭には、まだ日が高くなる前から馬と荷車と怒鳴り声が並んでいた。
郊外の墓苑で鬼の出没が急増している。埋葬したばかりの棺が土を押し上げ、弔いの灯が夜ごと消え、墓守が三人続けて正気を失いかけた。夜霧が濃い季節には珍しくない、と片づけるには数が多すぎる。
ロビサは記録箱の留め具を確かめ、荷車の脇で配られている薬湯へ手を伸ばした。
「熱いから、舌をやけどしたら文句じゃなくて感想をちょうだい」
鍋をかき回していたエナシェが、こちらを見ずに言う。乾いた薬草の匂いの奥に、炒った麦の香りがした。眠っていない頭へ、じわりと温かさが落ちていく。
「感想ですか」
「今日は苦いだけじゃ士気が下がるもの。少しだけ甘くした」
たしかに後口に、蜂蜜のようなやわらかい甘みが残った。
その隣ではレドルフが、討鬼騎士団の若い団員たちへ大仰に腕を広げている。
「諸君、墓苑は静けさの庭であって、君らの情けない悲鳴を響かせる演芸場ではない。叫ぶなら勇ましく、転ぶなら前向きに!」
「転ぶ前提で話さないでください!」
若い団員が半泣きで返し、周囲に乾いた笑いが広がった。
重たい朝ほど、ああいう男は役に立つ。ロビサは認めるのが少し悔しかったが、出立前の空気がひと息ぶん軽くなったのは確かだった。
荷車の反対側では、モンシロが地図を広げ、墓苑の起伏と退路を指でなぞっている。
「中央の納骨堂には近づきすぎるな。昨夜、地面が二度沈んだ。迷の口が近い」
その声へ、ハディジャが肩を預けて覗き込んだ。
「西の石壁が崩れてる。逃げ場が一つ死んでるな」
「お前は東側を見ろ」
「はいはい。命令されるのは好きじゃないが、外れるのはもっと嫌いだ」
ロビサはその横顔を見て、すぐに視線を逸らした。
昨夜、禁書庫へ忍び込んだことも、その先で何を見たかも、ハディジャはまだ詳しく語っていない。だが、目の奥に薄く残る疲れは、ただ眠れなかっただけのものではなかった。
荷車が城門を抜け、墓苑へ着いたころには、空は鈍い鉛色に曇っていた。
ルクスバール郊外の共同墓苑は、なだらかな丘の斜面に石碑が幾重にも並ぶ場所だ。今日はその整然とした列のあちこちが崩れ、土が内側から掻き回されたように盛り上がっている。供花は泥に沈み、弔いの白布は枯れ枝へ絡んで裂けていた。
最初の異変は、風より先に匂いで来た。
湿った土と、古い血と、名を呼ばれなくなったものの澱んだ匂い。
ロビサは記録針へ指を添える。ムーンストーンが、鞘の中でかすかに鳴った。
「来るぞ!」
前列にいた騎士の声と同時に、墓石の列のあいだから黒い影が噴き上がった。
人の形を取り損ねた小鬼が三体、続いて、背骨の曲がった大きな影が一体。泣き声のような風切り音が墓苑に満ちる。
討鬼騎士団が槍を構え、モンシロの指示が飛ぶ。
「記録班は左へ寄れ! 名の反応が出たものから拾え!」
ロビサは墓石の陰へ滑り込み、倒れた墓守の帽子を拾った。帽子の縁に残った手垢と、震えながら書かれた見回り札。そこへ記録針を触れさせると、掠れた声がムーンストーンの中で弾けた。
――まだ、ここにいる。
名を奪われかけた者の最後の抵抗だった。
ロビサは羊皮紙へ走り書きする。
『墓守は持ち場を離れなかった』
文字が定着した瞬間、石碑の陰にうずくまっていた小鬼の一体が、糸の切れた黒布のように崩れた。
「効くぞ、記録官!」
前線から叫んだのはハディジャだった。彼は修理用の鉄鉤を短槍代わりに振るい、騎士の死角へ入り込んだ鬼の腕を引っかけて引き倒す。その動きは喧嘩じみて荒いのに、誰を守るかだけは妙に正確だった。
だが数が減らない。
倒した端から、納骨堂の裏手の闇が膨らんでいく。
レドルフが崩れた供花台の上へ飛び乗り、腹の底から声を張った。
「聞け、名もなき影ども! ここは静かに眠りたい者の庭だ。招かれぬ客は退場願おう!」
芝居がかった台詞だったが、その声は不思議と場を支えた。怯えていた若い団員が呼吸を取り戻し、前列の足並みがそろう。
エナシェは荷車の後ろで薬湯の鍋を火から外し、今度は布袋から白い粉を掴んだ。
「ロビサ、目を閉じないで!」
投げつけられた粉が、地を這う影へ降りかかる。薬草と砕いた塩石を混ぜたものらしい。鬼が甲高い音を立てて身を縮め、そこへ騎士たちの刃が入った。
押し返せる。
そう思った直後、地面が鳴った。
ごう、と低い腹鳴りのような音が、丘全体の底から響いた。中央納骨堂の前に走っていた石畳が、一本の黒い筋を引くように割れていく。土ではない。もっと深いところで固まっていた夜そのものが裂けるみたいに、暗い口がゆっくり開いた。
「迷……!」
誰かが叫び、前列が一歩だけためらった。
迷の入口は、ただの穴ではない。失われた名と怨みが沈殿する地下の口だ。近づけば、自分の輪郭まで吸われる。
モンシロの声が鋭く飛ぶ。
「退路を空けろ! 無理に押し込むな!」
だが割れ目の縁で、青い光が瞬いた。
黒い土に半ば埋もれた石塊。拳ほどの大きさのそれは、濁った空の下でもはっきりと月光めいた光を返している。
【続】