テラーノベル
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部屋の空気は、さっきよりも妙に静かだった。
誰も大きな声を出さない。
でも視線だけは、はっきり凪に集まっている。
凪はその中心に立っていた。
さっき自分が言った言葉が、まだ空気に残っている。
「蒼が言うなら」
あの瞬間、冗談だったはずの空気が少し変わった。
誰かが笑いながら言う。
「すげえな」
別の誰かが言う。
「そこまで言う?」
その声は面白がっているだけだった。
でも凪の胸の奥には、じわじわ重さが広がっていく。
言い過ぎたかもしれない。
でも、もう引き返せない。
蒼は凪の肩に置いていた手をまだ離していなかった。
強く掴んでいるわけではない。
けれど、触れているだけで凪の意識はそこに引き寄せられる。
蒼の体温。
距離。
それだけで呼吸が少し浅くなる。
蒼は凪を見下ろす。
さっきまでの軽い笑いは消えていた。
代わりにあるのは、少し考えるような目だった。
「お前さ」
蒼が言う。
「ほんとに断らないの?」
凪は一瞬だけ黙る。
その問いは、試すような声だった。
凪は視線を逸らす。
床を見る。
「……蒼が嫌なら、やめる」
それが本音だった。
部屋の誰かの命令じゃない。
蒼が止めるなら、やめる。
それだけ。
蒼は少し眉を上げる。
「俺基準かよ」
小さく笑う。
でもその目は、どこか鋭い。
後ろから声が飛ぶ。
「蒼」
ソファにいた男だ。
「そんな優しい感じで終わらすなよ」
周りから笑い声。
「ここまで言わせといて」
「試さないの?」
煽る声が増えていく。
凪の背中が少し固くなる。
分かっている。
この空気は、
止まらなくなる前の空気だ。
誰かが言う。
「キスくらいさせてみろよ」
部屋がざわつく。
半分冗談。
半分本気。
凪の心臓が大きく鳴る。
蒼は黙る。
視線だけで、ゆっくり凪を見る。
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その目は冷静だった。
でも、完全に否定もしない。
それが余計に凪の胸を締めつける。
蒼は凪の顎に手をかけた。
軽く上を向かせる。
凪の顔が蒼の方へ上がる。
距離が近い。
さっきよりも、ずっと。
部屋の空気が一気に張り詰める。
蒼は凪の顔をじっと見ていた。
恥ずかしさで少し赤くなった頬。
視線を逸らしたいのに逃げない目。
蒼は気づく。
こいつ、本当に逃げない。
それが、妙に胸の奥を刺激する。
蒼の指が凪の頬に触れる。
その瞬間、凪の身体が小さく震える。
周りが小さくざわめく。
蒼は少し笑う。
「そんな顔するなよ」
低い声。
「まだ何もしてない」
凪の喉が乾く。
逃げたい。
でも同時に――
蒼が離れる方が怖い。
その感情に気づいて、凪は少し混乱する。
そのとき、後ろからまた声が飛ぶ。
「やれよ蒼」
笑い声。
「ビビってんの?」
その言葉で、空気が変わる。
蒼の目がわずかに細くなる。
挑発だった。
蒼はそういう言葉に弱い。
蒼は凪を見た。
数秒。
それから、静かに言う。
「顔上げろ」
凪はゆっくり顔を上げる。
二人の距離は、もうほとんどない。
凪の心臓は、耳の奥で鳴っているみたいだった。
蒼の視線は真っ直ぐだ。
その目に、少しだけ危ない光がある。
蒼は低く言う。
「ほんとに後悔しない?」
凪は少しだけ息を吸う。
答えはもう決まっていた。
「……うん」
その声は小さかった。
でもはっきりしていた。
蒼の指が凪の顎から離れる。
代わりに、首の後ろに回る。
軽く引き寄せる。
凪の身体が蒼に近づく。
そして――
蒼は凪の耳元で、小さく呟いた。
「じゃあ」
少し笑う。
「全部、お前のせいな」
その言葉は冗談みたいだった。
でも凪の胸には、
重く沈んだ。
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