テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ドアをノックする音が、やけに小さかった。
「……どうぞ」
日下部が顔を上げると、扉の隙間から人が覗いた。逃げ道を残したままの立ち方だ、と一瞬でわかる。
「あの……今、いいですか」
「空いてる。入って」
椅子を勧めると、その人は少し迷ってから腰を下ろした。背筋は伸びているのに、視線だけが落ち着かない。
「相談、か」
「はい。……たぶん」
“たぶん”が、喉に引っかかる。
日下部はそれを拾わず、机の上のペンを置いた。
「無理にまとめなくていい。思いついたところからで」
少し間があって、その人は口を開いた。
「殴られたことは、ありません」
「うん」
「怒鳴られたことも、ほとんどないです。家でも、学校でも」
まるで先に否定しておかないといけない項目を、一つずつ消していくみたいだった。
「問題は起こしてないし、周りからも“いい子”って言われてました」
そこで一度、言葉が切れる。
「でも……」
日下部は、続きを急かさない。
「……いつからか、誰も本気で私に関わらなくなりました」
「本気で、って?」
「叱られない。褒められない。期待も、失望もされない」
指先が、膝の上で絡まる。
「何か言っても、『まあ、そうだよね』で終わるんです。失敗しても、『気にしなくていいよ』。成功しても、『よかったね』で終わり」
「……楽だった?」
「最初は」
即答だった。
「静かで、波風が立たなくて。自分がいなくても世界は回るんだなって、安心もしました」
その言い方に、安心と一緒に混じった諦めが滲む。
「でも最近、わからなくなってきて」
「何が」
「私って、傷ついていい存在なのかどうか」
日下部は、少しだけ息を吸った。
「どういうときに、そう思った」
「泣いたときです」
「……」
「『大丈夫でしょ?』って言われました。苦しいって言ったら、『でも生きてるじゃん』って」
声は落ち着いているのに、言葉だけが鋭い。
「それって、否定じゃないですよね。でも……」
「肯定でもない」
「はい」
日下部は小さく頷いた。
「それで?」
促すと、その人は一度視線を上げ、すぐに逸らした。
「だったらいっそ、ちゃんと怒られたかった」
少し笑おうとして、失敗する。
「ちゃんと責められて、ちゃんと嫌われて、ちゃんと傷つけてほしかったんです」
沈黙が落ちる。
「無視されるより、そのほうが“ここにいる”って感じがするから」
日下部は、すぐに「それはおかしい」とは言わなかった。
「……それ、変だと思ってる?」
「はい。頭では」
「でも、そう思ってしまう」
「思ってしまいます」
日下部は椅子にもたれず、前に少し体重を乗せた。
「どこで間違えたと思う?」
「わかりません。最初から、間違ってた気もします」
その言い方は、責めというより確認だった。
「……じゃあ、これは俺の考えだけど」
日下部はゆっくり言葉を選ぶ。
「傷つけてほしかったんじゃない。ちゃんと向けられたかったんだと思う」
その人の指が止まる。
「怒りでも、失望でもいいから、“お前を見てる”って証拠が欲しかった」
少し間を置いて、続けた。
「無視って、殴られるより長く残るから」
相手は、何も言わなかった。
でも、肩の力がほんの少し抜ける。
「……次、何を話すかは決めなくていい」
日下部はそう言って、机の上の紙を裏返した。
「今日はここまででもいいし、続きを話してもいい」
相談室の空気は、まだ重い。
けれど、完全な無音ではなかった。