遥の指が、ぎこちなく日下部の服を掴んだ。
爪が食い込むほど強くもなく、でも、離したらもう戻れないとでも思っているみたいに、しがみつく。
 日下部は動かなかった。
抱き寄せもしない。けれど、振り払うこともしない。
ただその小さな震えを感じながら、長い呼吸をひとつ置いてから、低く声を落とした。
 「……俺、おまえに嘘つかないから」
 遥の指先が、びくりと震えた。
日下部は続ける。
 「強くもねぇし、完璧でもない。……ほんとは、何度もおまえのこと抱きたいって思ってる。嘘ついて我慢してきたわけじゃねえ。おまえが傷つくのが怖くて……ただそれだけだ」
 遥は息を詰めた。
喉の奥にひっかかる。
いま聞いた言葉が、どうしても信じられなくて。けど、どうしようもなく信じたい気持ちが、胸を掻きむしる。
 「……じゃあ……なんで、いままで……」
 声が掠れる。
 「おれ、何度も……おまえに試して、最低なこと言って、やって……それでも……」
 「だからだよ」
 日下部の声が重なった。
 「おまえが壊れそうに見えるたびに……俺が壊したくなかった。俺の欲で、おまえをまた地獄に引き戻すなんて……耐えられなかった」
 遥の視界が、揺れる。
泣きたいのに泣けない。泣けば、こんな弱さが全部ばれる。
でも――日下部はもう知っている。
 「……それでも、まだ……おまえ、ここにいる」
 日下部がそう言って、遥の頭にそっと手を置いた。
 「俺の隣にいる。それが答えだろ」
 その言葉に、遥の心は引き裂かれるようだった。
欲しかったのは、こういう言葉だった。
だけど同時に、受け入れればいままでの「生き延びるための自分」が崩れる。
 ――愛は、搾取だ。裏切りだ。
ずっとそう思い込んできた。
その信念を、たった一人の日下部が揺らしてしまう。
 「……やめろよ」
 遥は呟くように言った。
 「そんな顔すんなよ……おれ、信じられなくなるだろ……」
 言ってから、自分でも矛盾だとわかっていた。
信じたくないのか、信じたいのか。
遥自身が、いちばん答えを持っていなかった。
 それでも日下部は、離れなかった。
 「信じなくていい。信じられるまで、待つ」
 その言葉が、遥の心の奥で鈍く響いた。
 遥は服を握る手に、もう少しだけ力を込めた。
震えながら、それでも――自分から寄っていった。
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