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営業が始まって、まだ一時間も経っていない。
店内はほどよく埋まっていた。
私はカウンターでグラスを拭きながら、フロアを眺める。
高槻さんはいつもの席。
三崎さんは少し離れた場所。
真瀬さんは、まだ来ていない。
昨日までなら、そんなことを気にもしなかった。
今は。
気にしていないつもりなのに、視線が勝手に入口へ向く。
「ナナ」
黒服に呼ばれて、私は振り返った。
「高槻様から」
「はい」
席へ向かう。
「遅い」
座った瞬間、高槻さんが言った。
「まだ呼ばれてから三十秒です」
「俺にとっては長い」
「大げさ」
笑いながらグラスを置く。
「今日は忙しそうだね」
「これから混むと思います」
「そっか」
高槻さんは店内を見回す。
「三崎さんもいるし」
「はい」
「真瀬さんは?」
その名前が出た瞬間、
私は一度だけ入口を見る。
「まだですね」
「ふーん」
高槻さんはそれ以上言わなかった。
ただ、口元だけ少し笑っている。
「何ですか」
「別に」
「絶対何かありますよね」
「ないない」
そう言いながら、楽しそうだ。
私は少しだけ眉を寄せる。
「高槻さん、最近変ですよ」
「最近?」
「前より意地悪です」
「それは褒め言葉?」
「違います」
「残念」
笑い声が重なる。
そのとき。
入口のドアが開いた。
私は反射的にそちらを見る。
真瀬さんだった。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけ。
でも高槻さんは見逃さなかった。
「来たね」
今度はからかうような声ではなかった。
私は返事をせず、グラスに視線を落とした。
「ナナ」
「はい?」
「今日、俺の席にいていいよ」
「……何ですか、それ」
「別に」
高槻さんは笑う。
「今日は俺が独占したいだけ」
冗談みたいな言い方だった。
だから、いつものように笑って返せばいい。
なのに。
私は一瞬だけ、
どう返せばいいのか分からなかった。
コメント
1件
高槻さんの「今日は俺が独占したいだけ」、冗談のふりで本心をのぞかせる言い方、すごく好きです。その一言で、ナナさんが初めて返し方を迷う瞬間が生まれるのが、距離の縮まりを感じさせてすごく丁寧でした。真瀬さんが入ってきたときの一瞬の視線の揺れも、高槻さんがちゃんと見てるのも、読んでいて心臓がギュッとなりました。こういう静かな駆け引き、たまらないです🌷