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深夜の音大は、昼間の喧騒を忘れたかのように静まり返っていた。
昴は楽譜を広げ、鉛筆で書き込みながら、ふと息を止めた。
――翔が来る。
コンクールで、彼が自分の曲を弾くことが決まったのだ。
その知らせを受けた瞬間、胸が震えた。喜びと恐怖が混ざり合い、どちらの感情か自分でもわからない。
だが、今はただ準備しかない。
ピアノ練習室の扉が静かに開く。
無言で現れる翔。昼間の正装ではなく、ジャージの裾をまくり上げたリラックスした姿。だが、背筋の緊張は解けていない。
昴の視線を一瞬捕らえると、彼は何も言わずに鍵盤の前に座った。
「譜面、確認した」
短く言うだけで、昴にはそれが「やる気」の合図に思えた。
深夜の練習が始まる。
昴は指先を動かし、翔の手元を見つめながら微調整を重ねる。
旋律の隅々にまで気を配り、和音の響きが翔の指先にぴたりと合うように。
翔は無言で弾き、微かに眉を寄せ、時折昴の視線を探る。
昴はそのたびに胸が跳ねる。
――この人に、自分の音を完全に届けたい。
夜は深く、外の街灯も消えかけている。
連日連夜、二人は練習室に閉じこもり、音楽だけに集中した。
言葉はほとんど交わさない。ただ、指先の触れ合いや旋律の隙間で互いの呼吸を感じる。
ある夜、昴はふと気づいた。
翔は彼の曲に、自分の魂を重ねている。音の一つひとつを確認するたび、指先が微かに震え、呼吸が乱れる。
その様子に、昴の胸は締め付けられた。
――彼も、俺の音が必要なのか。
同時に、自分もまた、彼が弾く音なしでは心が空洞になることに気づいた。
沈黙と旋律だけの時間の中で、二人の依存は静かに芽吹いていた。
「……ここ、もっと強く、だ」
翔が指摘する。短く鋭い言葉だが、昴には命令にも愛情にも聞こえた。
指先がぶるぶる震える。胸の奥で、なぜか熱が湧き上がる。
夜半を過ぎても、二人は止まらない。
昴は自分の曲が、翔の手でどのように生まれ変わるのかを観察し、必要に応じて譜面を微調整する。
翔は弾きながら、昴の指示に沿う。時折顔を上げ、鋭い視線で昴の反応を窺う。
互いが互いを必要としている――その実感が、胸の奥でざわめく。
やがて深夜二時を過ぎ、疲労が指先を重くする。
昴は譜面を閉じ、翔を見た。彼もまた、肩を僅かに落として疲れた様子だった。
言葉はなく、ただ静かに二人は呼吸を合わせる。
それだけで、今の練習は十分に意味を持っていた。
帰り際、翔がふと呟く。
「お前の曲、もっと弾きたい」
その声は柔らかく、しかし昴の心に深く刺さった。
――俺も、もっと弾いてほしい。
昴は小さく頷き、翌日の練習を楽しみに、冷えた夜道を歩いた。
胸の奥で、旋律が静かに、しかし確実に共鳴している。
――これが、二人だけの世界の始まりなのだと。