テラーノベル
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店に入ってくるなり、手を振る。大げさで、分かりやすい。
「ナナちゃん! 今日いると思った」
「そうですか」
「当たったら嬉しいやつ」
指名が入る。理由は、たぶん、深くない。
席につくと、すぐグラスを空ける。テンポが早い。この人は、考える前に喋る。
「今日さ、仕事で最悪なことあって」
「それは、もう飲むしかないですね」
「そう! だから来た!」
私を理由にしない。でも、私を使う。
「聞いてくれる?」
「一応」
「一応なの?」
笑う。私も、少しだけ笑う。
話は長い。オチは弱い。でも、途中で私の顔を見る回数が多い。
「今、笑った」
「はい?」
「今の、営業じゃない笑い」
指摘が甘い。でも、嫌じゃない。
「……分かります?」
「分かる分かる。ナナちゃん、営業のとき目が違うもん」
近い。物理的にも、言葉も。
「近いです」
言うと、素直に引く。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌ってほどじゃ」
「ほど?」
また詰める。この人は、距離を縮めるのが早い。
「じゃあさ」
身を乗り出して、小声。
「店外で会ったら、もっと喋ってくれる?」
心臓が一瞬、跳ねる。でも、怖くはない。
「……考えます」
「考えるってことは、ゼロじゃない?」
その言い方。期待を置いていく。
「ナナちゃんさ」
急に真面目な声。
「ここ、好き?」
答えに迷う。好き、ではない。でも、嫌いでもない。
「仕事です」
逃げる。
「そっか」
少しだけ、残念そう。でも、すぐ笑う。
「じゃあ、俺はナナちゃんのこと好きだわ」
軽い。告白みたいで、告白じゃない。
「……今の、冗談ですか」
「半分」
「ずるいですね」
「でしょ」
この人は、
重くしないことで、
気持ちを置いていく。
延長を入れる。理由は言わない。でも、分かる。
帰り際。
「また来るね」
「ありがとうございます」
「それ、仕事の声」
「仕事なので」
「じゃあ次は、仕事じゃない声で言わせる」
去り際まで、踏み込む。
残されたグラスを見る。氷は溶けている。でも、さっきより甘い。
思う。
さっきの人は、私を揺らす。
あの人は、私を休ませる。
――危ないのは、
どっちだろう。
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