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夕食のあと、居間の空気が変わったのは一瞬だった。
「――作文、出たんだって?」
晃司の声だった。
問いかけの形をしていたが、確認ではない。
すでに知っている口調だ。
遥は喉の奥がひくりと縮むのを感じながら、鞄からノートを出した。
ページの角が、何度も触られたせいで丸くなっている。
「学校の宿題?」
沙耶香が笑う。柔らかい声だが、目は動かない。
「“家族について”とか? ありがちなやつね」
怜央菜はソファにもたれ、スマホを弄りながら言った。
「へえ。どうせ薄っぺらい感動話でしょ」
颯馬は何も言わない。ただ、楽しそうに遥を見る。
「読め」
晃司の一言で、すべてが決まった。
遥は立ったまま、ノートを開く。
視線を落とすと、あの“正解に寄せた嘘”が並んでいた。
――家族は、僕に多くのことを教えてくれました。
声が、思った以上に震えた。
「聞こえない」
沙耶香が即座に言う。
「ちゃんと“人に伝える声”で読めって、学校で教わらなかった?」
遥は息を吸い直した。
腹の奥が冷える。
「……家族は、僕に多くのことを教えてくれました」
その瞬間、怜央菜が吹き出した。
「“多くのこと”ってなに?
具体性ゼロ。先生に言われなかった?」
遥の指が、ノートの端を強く掴む。
「続けろ」
晃司は表情を変えない。
――厳しいと感じることもありますが、それは僕のためを思ってのことだと――
「止めて」
沙耶香が手を上げる。
「“厳しいと感じる”?
“感じる”ってなに? 主観で逃げてない?」
遥は言葉を失う。
「厳しい“事実”があるなら言ってみなさいよ。
言えないなら、“厳しい”なんて書くな」
怜央菜が顔を上げ、にやりと笑った。
「ほら、被害者ぶる癖出てる」
(違う……これは、先生に言われた通りに……)
その言い訳は、口に出る前に潰された。
「“ためを思って”のくだり、もう一回」
晃司が言う。
「今のは、感情が入ってない」
遥は、唇を噛みしめて読み直す。
――それは、僕の将来のためであり――
「“将来”?」
怜央菜が遮る。
「将来って、なに。具体的に言って」
「……分からない」
正直な答えだった。
次の瞬間、空気が冷え切った。
「分からないのに書いたの?」
沙耶香の声が、低くなる。
「じゃあ嘘じゃない」
遥の胸が詰まる。
「嘘を書いて提出したんだ」
晃司が淡々と言う。
#いんく
にてこ
785
「それ、どう思う?」
(違う……嘘じゃない……嘘にしないと……)
「続きを読め」
命令が落ちる。
――僕は、家族に感謝しています。
読み上げた瞬間、颯馬が小さく笑った。
「感謝してる人の顔じゃない」
その一言が、刃だった。
「顔、上げて読め」
晃司が言う。
「感謝してるなら、相手の顔見ろ」
遥は、ゆっくり顔を上げる。
四人の視線が、一斉に刺さった。
逃げ場はない。
「もう一回」
沙耶香が言う。
「“感謝しています”のところ」
遥は、喉を震わせながら繰り返す。
「……感謝、しています」
「違う」
怜央菜が即座に言う。
「全然伝わらない」
「心がない」
颯馬が続ける。
「その態度で“感謝”とか、失礼じゃない?」
沙耶香が首を傾げる。
(どうすればいい……)
「じゃあ教えてやる」
晃司が立ち上がる。
「“感謝してる態度”で読め。
姿勢、声、目。全部だ」
遥は背筋を伸ばす。
喉が痛い。
――僕は、家族に感謝しています。
必死に、作った声だった。
「気持ち悪い」
怜央菜が言い捨てる。
「媚びてる」
「でも、さっきよりはマシ」
沙耶香が評価する。
「ほら、できるじゃない」
その“評価”が、遥の中の何かを削った。
(良くなった……?)
(これが……正解……?)
「最後まで読め」
晃司が言う。
「一行も飛ばすな」
遥は、もう内容を理解していなかった。
ただ、声を出す装置のように、文字を音に変えていく。
読み終えたとき、
沈黙が落ちた。
「で?」
沙耶香が言う。
「これ、本心?」
答えられるはずがない。
「黙るってことは、違うんだ」
怜央菜が楽しそうに言う。
「じゃあ、何が本心?」
遥の視界が滲む。
(言ったら……終わる)
(言わなくても……終わってる)
「書き直せ」
晃司が結論を出す。
「今度は、“嘘をつかずに”。
ただし――」
一拍置いて、続ける。
「“感謝していない”とは書くな。
“辛い”とも書くな。
“嫌だった”も禁止だ」
遥の頭が真っ白になる。
「じゃあ、何を書くんだよ」
思わず漏れた声は、掠れていた。
その瞬間、空気が凍る。
「口の利き方」
沙耶香が冷たく言う。
「誰に向かって言ってるの?」
晃司は、遥を見下ろした。
「書け。
書けるようになるまで、終わらない」
遥はノートを抱えたまま、立ち尽くす。
(学校で“向き合え”って言われて)
(家で“正直に書くな”って言われて)
(じゃあ……)
(俺は、何を書けばいいんだ)
答えは、誰も教えない。
ただ、
声に出して自分を削る時間だけが、延々と続いた。