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帰り道はやけに遠く感じた。靴底に砂利が当たる感触がいつもより生々しくて、足の裏に痛みが残る。教室で浴びせられた声や笑いが頭の裏でぐるぐると回る。スマホの赤い録画ランプの光だけが、まだ目の奥に焼き付いている。
「ごめん」って言った。俺はただ、それしか出せなかった。声帯が裂けそうで、出た音は紙屑みたいに薄かった。それでもみんなはそれを取り上げて、更に何かを付け足して笑って。録画は回り続け、俺の体の震えは嗜虐のネタになった。
背中の鈍い痛みが歩くたびに波打つ。腕に残った押しつけられた痕、膝に生暖かい擦り傷、掌の爪の先に食い込んだ痛み。どれも大したことないはずなのに、全部が「触れられた証拠」として重い。家までの距離は短いはずなのに、世界が妙に広く、声は遠くて届かない。
通りすがりの人の影がぶつかるたび、自然に顔を伏せる癖がついている。誰も見てないはずなのに、視線があるようで、振り返る勇気は出ない。結城の弟の無邪気な笑顔だけが、まるで泥に刺さった光のように脳裏に残る。あのときの「また会えるかな」って言葉が、どうしてこんなにも胸を引き裂くんだろう。
家のドアを開けると、空気が少し変わる。玄関の灯りの温度は優しくて、でも俺の中の冷たさは消えない。脱いだ靴を揃え、濡れた掌で顔を拭く。鏡の中の自分を見たくない。見たら、きっと全部がばれてしまいそうで怖いから。
鏡に映るのは、いつもの俺よりも一回り小さい顔。唇が乾いて、目の下にうっすら影ができている。頬の線に残る赤みを見て、痛みを思い出す。指先で耳の後ろを撫でると、まだ熱を持っている。息を大きく吸って、吐いても、胸の中のざらつきは消えない。
洗面台の水道をひねって、冷たい水で顔を洗う。びしゃりと水が肌を叩く瞬間、涙が一粒だけ混ざった。拭き取ると熱が残るだけで、蒸発するように消えていく。声を殺して嗚咽することもできない。音が出ると、また何かに消費される気がするからだ。
気配がどこにもないのを確認して、体勢を崩しながら床に座る。膝を抱いて、頭を押し付ける。息をするたびに胸が痛む。叫びたくても声は出ない。拳を握って爪を食い込ませる感触で、唯一、現実を確かめる。
「なんで俺なんだろう」って考えると、答えはいつも同じところに戻る。理由なんて特別なものはない。いつもの居場所、いつもの目線、いつもの扱い。そこにちょっとした余白があった。それだけで、彼らは群れて牙を向ける。結城の弟が無邪気にくれた言葉は、その余白に触れただけの出来事だったのに。それが、俺を燃料にした。
携帯を触る。昼間の録画が消えているはずもなく、誰かが勝手に投稿してるかもしれない。開きたくないという本能と、確認しなきゃいけないという強迫が交錯する。結局、画面に触れる指は止まった。見たら、もっと壊れる。見なければ、何が広がっているか想像してまた壊れる。どちらも嫌で、結局何もしない。
夕飯の匂いが鼻をくすぐっても、食べる気は起きない。箸を持つ手が冷たく、皿の中のものが濃厚に感じられるのはただの義務。家の中の音は外の世界よりずっと遠い。
ふと思う。結城の弟と出会ったとき、あいつは何を見て「いい人」って思ったんだろう。表面だけの礼儀?それとも、俺の中のほんのわずかな優しさに気づいたのか。どちらにしても、結城はそれを許さない。弟の目に映った一瞬を、結城に塗り潰される。だから俺は昨日、今日、そして明日も痛めつけられる。
暗くなると、夜の雑音が薄くなる分、孤独が張り出す。息を潜めるように目を閉じると、現実の痛みがきっと夢にまで落ちてくる。そこへ沈むのが怖くて、眠れないほうが楽だとさえ思う。
だが、どこかに小さなものが残っている。自分でもよくわからないほど小さい。灰の中に残った火種みたいなものだ。べつに大きな反撃の意思でも、英雄的な決意でもない。ただ、「今日だけは全部失くしたくない」という程度の、薄い意志。生きてる実感がゼロに近いとき、その薄さでも手を離すと完全に消える気がした。
だから、歯を噛んで立ち上がる。深くは息を吸わずに、ただ一歩、廊下に出る。傷の疼きが響くけど、動けないほどではない。明日はまた同じ場所で、同じ視線が俺を待っているだろう。考えるだけで胸がつぶれる。でも、今日はまだ動ける。
小さな約束を自分にして、冷たい水で手を洗い、制服の乱れを直す。鏡に向かい、目だけをゆっくり覗く。凍ったような俺の瞳に、薄い火種がぼんやりと揺れていた。その揺れを見て、俺は何もしないよりはましだと思った。わずかでもいい、明日もそこにいるために、今は生き延びる──それだけでいい。