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終業後、夏帆は上司に退職届を提出した。
突然の申し出に上司は目を丸くしたが、今の時代、三十歳前後で別の道を選ぶ女性社員は珍しくない。
そのため、多少の覚悟はしていたのだろう。
引継ぎの都合で三か月後の退職を求められたものの、夏帆は一か月半後に辞めることにした。
最後の半月は有休を消化する予定なので、実質あと一か月通えば、この会社とも縁が切れる。
有休期間は引っ越し準備に充てようと思っていた。
(よし、あと一か月の辛抱だ)
そう自分に言い聞かせると、夏帆は俄然やる気が湧いてきた。
実は今日、廊下で駿介と紗英が並んで歩く姿を見かけた。
社内の目があるにもかかわらず、二人は親しげに笑い合っていた。
あの様子なら、関係が社内に広まるのも時間の問題だ。
(その前に逃げなきゃ)
夏帆はそう強く思った。
帰り道、昼休みに予約していた不動産屋をいくつか回ることにした。
もちろん、あの見ず知らずの男がくれたメモに書かれていた店以外だ。
まず一軒目を訪ね、事情を説明すると、不動産屋の男性スタッフは首を傾げた。
「退職予定ということは……ご入居されるころには無職、ということでよろしいでしょうか?」
「はい」
「うーん……となると、保証会社の審査が通るかなあ~?」
男性スタッフはうなるように言った。
「辞めるまでまだ一か月半ありますし、その後は失業保険も出ます。貯金もある程度は……」
「そうですよね~。ただ最近、保証会社の基準が厳しくなってしまって……。少々お待ちください」
男性スタッフは後方の上司に相談しに行き、戻ってくると申し訳なさそうに言った。
「やはりちょっと厳しいかと。ご両親のどちらかに保証人になっていただければ可能性はありますが……そのあたりはいかがでしょう?」
「あ、それはちょっと無理です」
夏帆の実家は遠く、母子家庭で母一人。
今の状況を話せば心配をかけてしまうため、できれば頼りたくなかった。
「では、大変申し訳ないのですが、当店ではご紹介が難しいですね~」
「そうですか……分かりました」
夏帆は男性スタッフに軽く会釈し、店を出る。
その後二軒回ったが、どちらも反応は同じだった。
(くうっ……世の中って、独身アラサー女子に厳しすぎやしませんか?)
世間の厳しさを噛みしめながら、夏帆は駅前の植え込みの縁に腰を下ろした。
時計を見ると、あと一時間ほどで不動産屋は閉まってしまう。
(でも、これ以上行っても同じ結果だよね……)
肩を落としながらどうするか考えていると、ふとあのゆるふわ男のメモを思い出した。
(いっそのこと、あそこに行ってみる?)
隣駅にある店だったので、夏帆は立ち上がり、駅へ向かった。
“三木谷エステート”は駅前の新しいビルの一階にあり、まだ営業していた。
「もうこの際、どんな部屋でも決まればいいんだから」
そうつぶやきながら店内へ足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
数人の客がいる中、夏帆に声をかけたのは同年代の女性スタッフだった。
名札には“三木谷”とあり、経営者の身内だろうか?
「お部屋をお探しですか?」
上品で柔らかな雰囲気の女性は、所作にも品がある。
きっと育ちがいいのだろう。
「はい」
「では、どうぞおかけください」
椅子に腰を下ろすと、女性スタッフは基本情報を記入する用紙を差し出した。
夏帆が書き終えると、用紙を見ながら女性スタッフが口を開く。
「近々お仕事をお辞めになるのですね」
「はい。でも、それが原因で部屋がなかなか決まらなくて……」
「それはお気の毒ですね。少々お待ちください」
女性は一旦席を立つと、後ろにいる社長らしき男性に相談にいった。
そして、すぐに二人で戻ってくる。
その男性は透也の弟・新だった。
新は名刺を差し出しながら挨拶した。
「いらっしゃいませ。店長の三木谷です。お仕事の件でお部屋が決まらないと伺いましたが……」
「はい。今、2~3か所回ってきたのですが、全部ダメで……」
「そうですか。お聞きしたところ、まとまった預金はお持ちだとか?」
「はい」
「でしたら、銀行の残高証明書を取っていただければ審査を通すことは可能ですよ」
藁にもすがる思いだった夏帆の顔が、ぱあっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。審査の通りやすい保証会社もいくつかありますから」
「よかった……。じゃあ、それでお願いします」
胸の奥がふっと軽くなり、夏帆は満面の笑みで頭を下げる。
「ははっ、ご心配ありませんよ。こういったケースはよくありますから」
「そうなんですか?」
「ええ。手続きが少し面倒なので門前払いをする不動産屋もありますが、私どもは全力でお手伝いしますので、どうぞご安心ください」
そのプロ意識に満ちた言葉を聞いた瞬間、夏帆は思わず涙がこぼれそうになった。
(こういう会社が、本当に“いい会社”って言うのよね……)
胸の奥がじんわり温かくなり、夏帆はもう一度深く頭を下げた。
――それから一時間後。
夏帆は満足げな様子で駅へ向かっていた。
先ほど、最初に対応してくれた女性スタッフ――社長の新の妻・亜希といくつかの物件のチラシを見比べ、後日内見する部屋を選んだ。
夏帆の希望は、
・古くてもいいから家賃と近所の物価が安い物件
・再就職を考えて都心や駅に近い場所
この二点だったが、ぴったりの物件が一つ見つかった。
それは新が自信を持って薦めてくれた部屋でもあった。
その物件は、築年数こそ古いものの、鉄筋のしっかりした造りで、近くには昔ながらの商店街がある。
物価も安く、日用品から食材まで何でもそろう商店街で、とても暮らしやすそうだ。
次の休みに、さっそく内見の予約を入れることにした。
(なんとか新しい部屋が見つかりそうで、よかった……)
ほっと息をついた瞬間、ふとあの不動産屋を紹介してくれた男性の顔が浮かんだ。
(あのゆるふわ系、なかなかやるじゃない。バカなんて言って悪かったわ)
そう心の中でつぶやき、夏帆はふふっと笑った。
そして軽やかな足取りで駅の構内へ入っていった。
コメント
16件
昨日透也さんは 少し年季の入ったマンションで電話してましたよね 夏帆ちゃんが選んだ物件も古いけどしっかりした物件‼️もしかしてお隣どうしになるのかしら❓ 過去をスッキリさせる夏帆ちゃんには素敵な明日がまっているのかな?
ゆるふわ透也さんのおかげで助かった🙌✨ 夏帆ちゃん、素敵な部屋が見つかりそうで良かったね💕︎内見楽しみ🎵 この時に透也さん来たりしないかなと妄想しちゃってます🤭💖
全てはゆるふわイケメンの筋書き通りに進んでるのでは…|・ω・)???? 店長オススメ物件には、ゆるふわイケメンが既に居住中…で、ゆるふわイケメンもオマケでオススメしちゃう感じ? 店長やるな(⁎⁍̴̛ᴗ⁍̴̛⁎)ってか、二人揃って策士な予感。 …と言う妄想を張り巡らしております♡ ゆるふわイケメン透也さんの素性が気になるなぁ。