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殴る音は、思っていたよりも軽かった。乾いた音が一度、二度。笑い声と混ざって、教室のざわめきに紛れる。
遥は壁際に押しつけられていた。
逃げるでも、抵抗するでもなく、ただ顎を引き、視線を床に落としている。
「ほら、反応しろよ」
「無視? あ、いつものか」
誰かが肩を掴み、誰かが腹に拳を入れる。
力は強くない。だが、繰り返される。
逃げ道を与えない殴り方だ、と日下部は思った。
——やめろ、と言えばいい。
——見て見ぬふりをすればいい。
その二択しかないはずなのに、体はどちらにも動かなかった。
「なあ日下部、見てるぞ」
誰かが笑いながら言う。
遥の名を呼ばず、日下部のほうを見る。
その視線に、遥が一瞬だけ顔を上げた。
期待ではなかった。
ただ、確認するような目だった。
日下部は視線を逸らした。
「はあ……」
誰かが大げさに溜息をつく。
「ほんと使えねえな」
「役立たず」
遥の頬に、平手が飛んだ。
音が少し大きくなった。
日下部の胃が、きしんだ。
——俺が止めたら?
——俺が口を出したら?
その先を考えた瞬間、
頭の中に、いつも一歩先の結論が浮かぶ。
状況が悪くなる
矛先がこっちに来る
結局、遥がもっと酷い目に遭う
そう自分に言い聞かせる理屈は、もう用意されていた。
そのときだった。
「……あれ、まだやってんの」
軽い声。
振り向くと、廊下側に蓮司が立っていた。
手を出す様子はない。
驚いた顔もしない。
ただ、少し眠たそうな目で、状況を一瞥しただけ。
「あー、蓮司」
誰かが声をかける。
「邪魔?」
「いや、別に」
蓮司は肩をすくめ、興味なさそうに視線を逸らした。
それだけで、場の空気が少し緩む。
殴りは止まらない。
だが、テンポが落ちた。
蓮司いわく、“見られてる”だけで、人は手加減を覚える。
日下部は、なぜかその視線が自分に向いたことに気づいた。
「日下部」
名前を呼ばれ、肩が跳ねる。
「お前、ああいうの嫌いだろ」
責めるでも、促すでもない。
事実を並べただけの声。
「別に……」
日下部は即答した。
否定の言葉は出たのに、声が掠れた。
蓮司は一瞬だけ目を細め、それ以上は追及しなかった。
「そっか」
「じゃ、俺は帰るわ」
それだけ言って、蓮司は背を向けた。
本当に、それ以上関わる気はないようだった。
遥がもう一度殴られる。
さきほどより、少し遠慮がちな力で。
——助けられなかった。
——でも、悪化はさせなかった。
そんな言い訳が、日下部の中で芽を出す。
放課後、人気のない階段で蓮司とすれ違った。
「さっきの」
日下部が口を開く。
「別に、何もしなかったから」
蓮司は先にそう言った。
それは弁明ではなく、線引きだった。
「……俺、何もしないほうがいいよな」
日下部は自分でも驚くほど、自然にそう聞いていた。
蓮司は立ち止まらない。
「さあ?」
「お前が動いて、良くなる保証ある?」
軽い言葉。
だが、それは日下部の胸に、深く沈んだ。
責められていない。
命令もされていない。
ただ——
動かなくていい理由を、与えられただけだ。
「……だよな」
日下部は呟く。
蓮司は振り返らず、手をひらひらと振った。
その背中を見送りながら、日下部は思った。
俺は冷たい人間じゃない
ちゃんと嫌だと思ってる
だから、俺は違う
遥の顔が脳裏をよぎる。
床を見つめる目。
何も期待しなくなった目。
日下部は、それを見なかったことにした。
それが、どこまで自分を守ってくれるのかも知らずに。