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暴言は、殴打より長く残る。
遥はそれを、もう知っていた。
「なあ、日下部に見捨てられた感想は?」
昼休み。
教室を出ようとした瞬間、背中に声が飛んできた。
振り向く前に、肩を掴まれる。
力は強くない。だが、逃がさない位置取りだ。
「ほら、“まともな人”に見放されるって、どんな気分?」
笑い声。
周囲は見て見ぬふりをするでもなく、最初から視界に入れていないかのように通り過ぎていく。
遥は何も言わない。
言えないのではない。ただ——言葉が、もう彼らの玩具になっている。
「可哀想だよな、日下部」
「善人ぶって、クズの相手させられて」
腹に拳が入る。
昨日と同じ場所。
鈍い衝撃が、内側で丸く広がった。
息が一瞬、抜ける。
「お前さ、存在が重いんだよ」
足元を払われ、床に膝をつく。
すぐに第二の蹴りが背中に入った。
殴る、蹴る。
だが力は抑えられている。
後に残らないことを知っている手つき。
「日下部だって、そりゃ距離取るわ」
「あいつ、優しすぎるもんな」
その名前が出る。
遥の喉が、小さく鳴った。
——違う。
——そうじゃない。
否定したいのに、声にすれば“縋り”になるとわかっている。
だから、黙る。
それがまた腹立たしいらしい。
「ほら、黙る。ペットみたい」
「捨てられたペット」
さらに一発。
倒れたところへ、追加の蹴り。
肋のあたりが、熱を持つ。
呼吸が浅くなる。
それでも、頭の奥は冷えていた。
——折れない。
——ここで折れたら、本当に“そう”なる。
足音が増える。
誰かが近づいてきた。
「お、まだやってたんだ」
蓮司の声だった。
驚きはない。
止めに入る気配もない。
加害者たちは一瞬こちらを見て、すぐに調子を戻す。
「別に」
「教育」
蓮司はへえ、と相槌を打つ。
「ま、ほどほどにね」
まるで天気の話だ。
その一言で、殴りは終わった。
名残のように一度だけ、靴が遥の脇腹を蹴る。
「またな」
去っていく足音。
残るのは、呼吸音と、冷えた床。
蓮司は遥を見なかった。
代わりに、少し離れた場所に立つ日下部を見る。
「……ああいうの、きついよな」
蓮司は言った。
日下部は答えない。
視線が定まらない。
「でもさ」
蓮司は続ける。
「お前が守る役やる必要、ある?」
日下部の指が、わずかに動く。
「俺、別に正しいことしなくていいと思ってるんだよね」
「自分が減らない選択、っていうか」
穏やかな声。
責めない。
求めない。
ただ、結論だけを置いていく。
「日下部は、ああいうの気にするタイプじゃないって思われたほうが楽だろ」
「お前まで壊れるの、誰も望んでないし」
“誰も”。
その中に、遥は含まれていなかった。
日下部は、頷いていた。
「……それ、正しいと思う」
自分に言い聞かせるように。
蓮司は微かに笑った。
「でしょ」
遥が咳き込み、体を起こす。
その動きは、視界の端に入ったはずなのに、二人は何も言わない。
沈黙。
やがて、蓮司が踵を返す。
「じゃ。俺、先行くわ」
日下部は一人、取り残された。
床に座る遥。
苦しそうに呼吸を整える背中。
——助けなかった。
——でも、悪意はなかった。
そう言い聞かせる言葉が、すぐに浮かぶ。
日下部はそれを選び、教室へ戻った。
遥は、しばらくその場で動けなかった。
肋の痛み。
肺に入らない空気。
そして、胸の奥。
名前が一度も呼ばれなかったことが、静かに刺さる。
——期待していない。
——それでも。
その矛盾だけが、まだ遥の内側で生きていた。
小さく、消えない火として。