テラーノベル
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翌日の帰り道、会社の門を出たところで、クリストルンは見慣れた無表情を見つけた。
ルチノが、書類ケースを片手に立っていた。
「どうしたんですか」
「資料の返却だ」
「それ、総務に渡せば終わるやつでは」
「おまえに直接、見せたいものがあった」
差し出された封筒には、昨日のノートの題名が控えめに書かれている。
クリストルンは目を瞬かせた。
「写したんですか」
「最低限だ。おまえの話が、ただの思いつきではないと分かる程度には」
「昨日のうちに?」
「寝つきが悪かった」
真顔で言うので、クリストルンは吹き出しかけた。
「それで、わざわざここまで?」
「ついでだ」
「絶対ついでじゃない」
「うるさい」
だが、帰る方向が同じなのは本当らしい。
二人は並んで坂道を上がり始めた。
夕暮れの光が、電柱や古い塀をやわらかく染めている。月椿堂へ向かうこの坂は、上ると少し息が切れるくせに、見える空が広くて、クリストルンは昔から嫌いではなかった。
「会社にいるときと、顔違いますね」
ふと口にすると、ルチノが眉を上げる。
「おまえこそ」
「私はいつも同じです」
「嘘だな。会議室にいるときは、背中まで戦ってる顔をする」
「背中までって何ですか」
「刺さりそうだ」
思わず笑う。
ルチノの口調は相変わらず硬いのに、ときどき妙に的確だ。
途中、坂の途中の自販機の前で立ち止まり、クリストルンは缶のおしるこを買った。ルチノは無糖のコーヒーを選ぶ。
「甘いもの好きなんですか」
「嫌いじゃない」
「そこは“好きだ”でいいのに」
「おまえは言い切りすぎる」
「迷うよりいいです」
「迷わない人間は危ない」
「でも、迷ってばかりの人は、こっちが心配です」
言ってから、少しだけ空気が止まる。
ルチノは缶を見下ろし、それから小さく息をついた。
「……そう見えるか」
「見えます」
「なら、たぶん当たってる」
会社で見る彼は、正しい順番で物事を積み上げる人だ。
けれど今の声には、その順番のせいで言えなくなったことが滲んでいた。
月椿堂の看板が見えてくる。
クリストルンは歩幅を少し落とした。
「ありがとうございます。これ、助かります」
封筒を抱きしめると、ルチノはわずかに視線を逸らす。
「まだ何も助けてない」
「それでもです」
夕日の色が、彼の頬を少しだけ赤く見せた。
たぶん光のせいだけではない。
そう思った自分に、クリストルンの胸も少しだけ忙しくなる。
ちょうどそのとき、店先の戸が開いた。
モンジェが顔を出し、二人を見て目を細める。
「おや。うちの坂に、固そうな青年がいるな」
ルチノの背筋が、少しだけ固くなった。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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