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チャイムが鳴る少し前、教室の空気は異様に静かだった。誰もが、何かが始まることを知っていた。
空席の遥の机の上には、昨日のノートが開かれたまま。
鉛筆の先が折れたように、途中で止まった文字が震えて見えた。
扉が開く音に、数人の視線がそちらを向く。
入ってきたのは教師と、その腕を掴まれた遥だった。
片足を引きずるようにして歩く姿。
教室の中央まで来たところで、教師は立ち止まり、冷ややかに言った。
「——お前たちに見せておくべきだと思ってな」
教師の声は穏やかだった。
しかしその穏やかさは、冷水のように張りつめている。
「昨日、彼は校内の規律を乱し、他の生徒に迷惑をかけた。
そして、それを認めようとしなかった」
教室のどこかで、誰かが小さく笑った。
遥は目を伏せる。視界の端に、震える指が見えた。
「お前、自分がしたことをわかってるか?」
教師の声が鋭く刺さる。
「お前が誰と関わっていたか——言ってみろ」
その瞬間、空気が一気に凍った。
教室の後方で誰かが囁く。
「結城の弟だろ?」
それが伝播して、ざわめきに変わる。
笑いと好奇と侮蔑が混ざった音が、教室を満たす。
教師はゆっくりと頷いた。
「そう。結城の家の子だ。……あの子は優秀だよな」
そして、視線を遥に向ける。
「お前みたいなのが関わるから、迷惑をかけるんだ」
クラスの数人が、くすくすと笑いを漏らす。
笑う理由なんて誰も考えていない。ただ、笑うことで空気に従う。
教師の目が、笑っていないまま細くなった。
「結城の弟に、どんなことを言った?」
「——……別に」
「別に、だと? お前の口から出る“別に”ほど信用できない言葉はないな」
机を叩く音が、雷のように響く。
遥の肩が跳ねた。
「お前は、自分がどれほど立場をわきまえずに人を巻き込んでいるか、分かっていない」
誰かが「調子に乗るなよ」と呟く。
別の誰かが、「兄貴に謝れよ」と声を上げる。
教師はそれを止めない。むしろ、聞こえないふりをしている。
「——謝れ」
「……誰に」
「全員に、だ。ここで」
声が震える。
遥はゆっくりと顔を上げた。
視界の中に、誰も優しい顔はいなかった。
「聞こえない。もっと大きな声で言え」
唇がひび割れるほどに噛みしめたあと、
掠れた声が教室に落ちる。
「……すみませんでした」
その瞬間、何人かが笑った。
乾いた笑いが、天井に跳ね返る。
教師は腕を組んで、その様子を静かに見ていた。
「そうだ。最初からそうやって素直になればいいんだ」
足の上に、何かが落ちた。
誰かが投げた消しゴムだった。
それをきっかけに、小さなものが次々と飛び始める。
紙くず、ペンキャップ、笑い声。
教師は、それを止めなかった。
「人はな、行いで評価される。……お前は、もう少し反省しろ」
その言葉の裏にあるものを、遥は痛いほど知っていた。
それは“更生”でも“指導”でもない。
ただ、壊すことの正当化だった。
視界が滲む。
涙なのか、光のせいなのか、わからない。
笑い声の向こうに、結城の名前がまた聞こえる。
「弟が可哀想」
「兄貴も恥だろ」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
誰にも聞こえない音。
自分自身が、自分の中で静かに壊れる音。
チャイムが鳴る。
教師は一言も言わずに教室を出ていった。
笑いと嘲りの残響だけが残る。
遥はゆっくりと席に戻った。
机に落ちた紙屑を払いながら、ふと指が止まる。
そこに書かれていた文字は、鉛筆で荒く刻まれていた。
──「お前が全部悪い」
黒い線が紙を裂いていた。
遥は何も言わず、ただその上に手を置いた。
温度のない静けさの中で、心の奥だけが確かに痛んでいた。