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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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その夜、月椿堂の食卓には、珍しく会話が少なかった。
モンジェは味噌汁の椀を大きな手で持ち上げ、いつものように豪快にすすった。けれど音ばかり大きくて、食べる速さは遅い。
「お父さん」
クリストルンは、包んで持ち帰った写真を机に置いた。
「これ、見て」
モンジェの箸が止まる。
写真に写っているのは、倉庫で見た“椿”の試作品だった。耳の縫い目がはっきり分かる角度で撮ってある。
「……どこで見つけた」
「会社の奥の倉庫」
「誰に見せてもらった」
「今はそれ関係ないでしょ」
「関係ある」
声が低い。
いつも大きいのに、今は妙に低くて、かえって怖い。
「これ、お父さんの仕事なんだよね」
「そうだとしても、もう終わった話だ」
「終わってないよ。残ってたんだよ」
「だから何だ!」
怒鳴り声が店の天井を打った。
古い時計がびくりと震えたように見えた。
「掘り返してどうする。誰が得する。おまえが傷つくだけだ」
「私は、傷つかないために知らないふりしろって言われてるの?」
「そうじゃない!」
「じゃあ何!」
クリストルンの声も、とうとう上ずった。
「私、ずっと子どもじゃないよ。お父さんが何か隠してるの、分かってた。質札のことも、母さんの箱のことも、会社の人たちの顔も」
「だから黙ってたんだ!」
モンジェは立ち上がった。
「おまえを普通に育てたかった!」
その言葉に、クリストルンの胸の奥で何かが切れる。
「普通って何」
「……」
「弱いままで私を守ったつもり?」
言った瞬間、空気が凍った。
モンジェの顔から色が消える。
大きな肩が、ほんの少しだけ揺れた。
クリストルンも、すぐに分かった。言い過ぎた。これは知りたかった真実への問いではなく、傷に向かって投げた刃だ。
「お父さん、私……」
「今日はもう話すな」
モンジェは低く言い、上着をつかんで店を出ていった。
引き戸が激しく閉まる音がして、店内が静まり返る。
クリストルンはその場に立ち尽くした。食卓には湯気の消えかけた味噌汁と、手つかずの煮物が残っている。
ほどなくして外で雨の音がし始めた。
それでも、父は戻らない。
クリストルンは写真を胸に押し当てた。
取り戻したかったはずの証拠が、今はただ、父を追い詰めた刃のように思えた。