テラーノベル
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署の裏手にある小さな喫煙所は、昼になると妙に静かになる。人の流れから外れていて、忙しさだけが置き去りにされる場所だった。
ベンチに腰を下ろしているのは、久我と木津。
二人ともネクタイを少し緩め、缶コーヒーを片手にしている。
「……今日は平和だな」
久我が言うと、木津は鼻で笑った。
「その台詞はフラグだろ」
「言うと思った」
二人は同期だ。
警察学校を出て、同じ時期に現場に立たされて、同じように失敗して、同じように怒鳴られてきた。
性格は正反対だった。
久我は淡々としていて、どこか一歩引いた視線を持つ。
木津は現場主義で、感情が顔に出るタイプだ。
「なあ、久我」
「ん?」
「真琴ちゃん、最近よく来てるな」
久我は一瞬だけ視線を逸らした。
「……ああ」
「成長早いよな。ついこの前まで、署の廊下走ってたのに」
「それはお前が止めなかったからだろ」
「止めたって聞かねぇんだよ、あの子」
そう言って、木津は少しだけ笑う。
そこへ、紙コップを三つ持った男が現れる。
「お前ら、こんなとこでサボってるのか」
真琴の父・誠一だった。
上着を腕に掛け、ネクタイを外している。
「サボりじゃなくて、休憩です」
久我が即答する。
「言い方がもう怪しい」
木津が受け取りながら言うと、誠一は肩をすくめた。
「まあいい。今日は珍しく会議もない」
三人でベンチに並ぶ。
紙コップの中身は、薄めのインスタントコーヒーだった。
「真琴がな」
誠一が、何でもないことのように言う。
「警察になりたいって言ってきた」
木津が思わず吹き出す。
「マジか」
「マジだ」
「やめとけって言った?」
「言った」
「で?」
「『じゃあ探偵になる』って」
今度は久我が小さく息を漏らした。
「……あの子らしい」
「だろ」
誠一は苦笑する。
それでも、その表情はどこか誇らしげだった。
「危ない仕事だぞ、って言ったんだ。
でもな」
一瞬、言葉を選ぶように間が空く。
「“危ないことが起きるなら、見ないふりはできない”って」
木津は、何も言わずに空を見上げた。
「……似てるな」
「誰に?」
「誠一さんにだよ」
誠一は笑った。
「言うな」
風が吹いて、喫煙所の灰皿がかすかに鳴る。
遠くでパトカーのサイレンが一瞬だけ聞こえて、すぐ消えた。
「なあ」
木津が言う。
「この時間、ずっと続けばいいのにな」
「無理だな」
久我が即座に返す。
「事件は待ってくれない」
「冷てぇなあ」
「現実的なだけだ」
誠一は二人を見比べて、ゆっくり立ち上がった。
「だからこそだ」
その声は穏やかだった。
「続かない時間だから、覚えておく」
久我と木津は、何も言わなかった。
ただ、その背中を見送る。
この頃はまだ、
名前が伏せられることも、構造が歪められることも、
誰かが“黙らされる”未来も、見えていなかった。
ただ、同じ場所で、同じコーヒーを飲んで、同じ空を見上げていただけの、昼下がり。
それだけのことが、後になって、どうしようもなく眩しくなることを、
誰もまだ知らなかった。
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