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沙夜が退院してから、三か月が経った。
彗はすくすくと育ち、毎日元気いっぱいだ。
沙夜の体力もすっかり戻り、以前と変わらない生活を送れるようになっていた。
ただ、心配性の司は家事を山下に任せるよう強く言い張り、沙夜が家事をすることはほとんどない。
息子の世話にも慣れ、日中は少し時間を持て余すようになってきた頃、沙夜の携帯が鳴った。
画面を見ると、後輩の梨花からだ。
その名前を見た瞬間、沙夜の胸に緊張が走る。
(……何の用かしら?)
少し身構えながら電話に出ると、明るい梨花の声が響いた。
「せんぱーい! その後いかがですかー?」
「梨花ちゃん、こんにちは。今、お昼休み?」
「いえ、今日は有休でショッピング中なんです」
背後からは街のざわめきが聞こえてくる。
「そうなのね。で、どうしたの?」
「それがですねぇ、先輩の宇佐美さんたちと話してて、沙夜先輩の赤ちゃんを見に行きたいなーって。みんなからのお祝いも渡したくて、都合のいい日にお邪魔してもいいですか?」
(え……うちに?)
沙夜は思わず息をのんだ。
ここは、司と彗と三人で静かに暮らすための場所。
梨花を招くことなど、考えたこともなかった。
以前のように何も知らなければ、喜んで迎えたかもしれない。
だが今は違う。胸の奥に警戒心が広がる。
沙夜は慎重に言葉を選んだ。
「気を遣ってもらってありがとう。でも、私ひとりじゃ決められないから、今夜夫に相談してみるわ」
「ええ~っ、昔の同僚がちょっとお邪魔するだけなのに、いちいちご主人の許可がいるんですかー?」
「ふふ、ごめんなさいね」
「じゃあ、ご主人がいいって言ったら、ぜひ伺わせてくださいね」
「ええ……分かったわ」
電話を切ると同時に、沙夜はふっと肩の力を抜いた。
(……いったい何を考えてるの? わざわざ家に来るなんて。気をつけないと)
胸の奥に不安が広がる。
沙夜は、今夜司に相談しようと心に決めた。
夜、司は会食を終えて、十一時過ぎに帰宅した。
彗が生まれてからというもの、司は以前のように頻繁に出張へ行くことがなくなった。
沙夜と彗が家に戻ってきてからは、できるだけ早く帰宅するようにしているらしい。
その変化が、沙夜には嬉しかった。
玄関の扉が開く音がして、沙夜は迎えに出た。
「お帰りなさい」
「ただいま。寝ていてよかったのに……」
「ええ。でも、ちょっと相談したいことがあって」
「相談? 珍しいね。彗は?」
「さっき授乳を済ませて、今はぐっすり眠っています」
「そうか。じゃあ、先にシャワーを浴びてくるよ」
司は上着を脱いで沙夜に渡し、バスルームへ向かった。
沙夜はその上着をクローゼットに掛けながら、どう切り出すべきか考え始める。
シャワーを終えた司が戻ってくると、沙夜は飲み物を尋ねた。
「ビールを一杯飲もうかな」
「分かりました」
沙夜はビールと、山下が作り置いてくれた総菜を豆皿に少しずつ盛り付けて運び、静かにグラスへビールを注ぐ。
司がそれをぐいっと飲み干し、満足そうに息をつくと沙夜へ向き直った。
「で、相談って?」
「実は……秘書室時代の後輩が、お祝いを持って家に来たいと言うんです。彗の顔を見に。他にも何人か一緒に来るみたいで」
「後輩って、川原梨花?」
名前を言い当てられ、沙夜は思わず目を丸くした。
「え? どうして分かったんですか?」
「結婚式のときに紹介してくれたからね」
「あ……そうでした」
司の記憶力の良さに、沙夜は改めて感心する。
「日にちはこちらの都合でいいそうです。本当は断りたかったんですが、お祝いをって言われると、断りづらくて……」
司は穏やかに答えた。
「いいんじゃないか。せっかく来てくれるんだし」
「でも……」
「当日は、僕もいるようにするよ」
「えっ? でも、お仕事が……」
「愛する妻と息子のために来てくれるんだ。だったら、歓迎しないとね」
“愛する妻”という言葉に、沙夜の頬が熱くなる。
司はそんな彼女の表情を見て、柔らかく微笑んだ。
「せっかくだから、君の同僚たちに、僕たち家族の幸せな様子を思う存分見せてあげようじゃないか」
「え、ええ……」
司が意外にも乗り気なのに驚きつつ、沙夜は受け入れてくれたことにほっとした。
司は携帯のスケジュールを確認し、メモ用紙にいくつか日程を書き込む。
「この日なら大丈夫だ。先方にはそう伝えるといい」
「ありがとうございます」
「当日は、山下さんにパーティー料理をお願いしようか」
「はい。私も手伝います」
「君は無理しなくていい。彗の世話だけしていればいいんだよ」
「は、はい……すみません」
恐縮して頭を下げる沙夜を見て、司はふと何かを考えてから口を開いた。
「沙夜……僕たちは夫婦で、彗の父と母なんだ。その他人行儀な話し方、なんとかならないかな?」
「えっ?」
司はグラスを置き、沙夜のそばへ歩み寄った。
そして彼女の手を取って立たせると、そのままソファへ誘導し、自分の膝の上に座らせるように引き寄せた。
「あっ……」
沙夜は小さく声を上げ、逃げようとしたが、司の腕にしっかり支えられていて動けない。
夫の瞳がすぐそばに迫り、沙夜の心臓はどくどくと音を立てる。
そんな妻に、司は甘い声で囁いた。
「僕と一緒にいると緊張する?」
澄んだ瞳がまっすぐに沙夜を見つめる。
沙夜は慌てて首を振った。
「いっ、いえっ、緊張はしてません……」
「嘘。してるじゃないか」
「し、してません! 誤解です!」
「だったら、もっとざっくばらんに話したら?」
「ざっくばらん? どんなふうにですか?」
「ほら、それ。“ですか”はなしだよ。もっと気軽に」
「えっ、えっと……」
司は微笑み、話題を変えた。
「じゃあ僕から。沙夜は今日お昼、何を食べた?」
「え、えっと……、山下さんのミートソーススパゲティです」
「美味しかった?」
「ええ、とっても……」
会話が途切れたところで、司が言った。
「じゃあ今度は沙夜から聞いて」
「あ、はい……えっと、司さんはお昼に何を召し上がったのですか?」
司は首をかしげた。
「うーん、固いなあ。もっと気軽に」
「えっ、あっ、はい。えっと……お昼は何を食べましたか?」
「あと一息!」
「……つ、司さんは何を食べたの?」
司は満足そうにうなずいた。
「いいね、その感じだ」
「あっ、はい……。で、何を食べたの?」
沙夜が無意識にもう一度尋ねると、その可愛らしさに司が笑った。
「ははっ、いいねえ、その調子!」
「はい……でも答えてくれない……の?」
「え? ああ、お昼か。今日は銀座紅葉亭の鰻だったよ」
沙夜は思わず声を上げた。
「ええっ、ずるい! 私、あのお店の鰻大好きなのに……」
悔しそうな沙夜を見て、司は吹き出した。
「あはは、ごめん。今度連れて行くから」
「本当に? 約束よ」
「分かった分かった、必ず連れて行く」
「わ、やった! ふふっ」
沙夜が嬉しそうに笑うと、司もまた声を出して笑う。
その笑い声に沙夜が顔を向けた瞬間、司は彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
「んっ……」
突然のキスに、沙夜の口から声が漏れる。
司は彼女を慈しむように、深く長いキスを続けた。
その温かさに胸がいっぱいになりながら、沙夜はそっと目を閉じる。
二人が触れ合うのは、あの見合いの日以来だった。
司は沙夜を抱きしめたまま、そっとソファに横たえようとした――
そのとき、寝室から彗の泣き声が響いた。
ベビーベッドを映し出すカメラには、目を覚まして泣く彗の姿が映っている。
「起きちゃったみたいだね」
司は頬を緩めて立ち上がり、沙夜に向かって言った。
「僕に任せて」
「お願いします……」
寝室へ向かう司の背中を見送りながら、沙夜はゆっくりと身を起こし、早鐘のように打つ胸をそっと押さえた。
コメント
17件
梨花を迎え撃つ作戦を何気無く考えている司さん 悪女から沙夜ちゃんを守ってくださいね 沙夜ちゃん心配事をしっかり相談できる様になって良かったね 話し方も司さんに上手に教えられて 鰻を食べたいと訴える沙夜ちゃんほんと可愛らしい🥰これからますます仲良し親子になるのでしょうね
性悪梨花は、きっと何か仕掛けてくると思う…😈 でも司さんがいてくれたら安心ですね〜😎👍 悪事を暴いて、返り討ちにしちゃってください!⚔️ 司さんの甘々モード💓 沙夜ちゃんが可愛くて仕方がない様子…💕💕🤭
本当にみんなで来るのかな? 一人で来るんじゃない? 何か仕掛けてくるんだと思うけど、司さんに返り討ちにされて欲しい。