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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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眠れなかった。
布団に入っても、資料室で見た「椿」のくまの耳と、食卓でモンジェが上げた声が、交互に浮かんでは消える。
夜半を過ぎたころ、クリストルンはそっと部屋を抜け出した。
店の灯りは落ちている。けれど月椿堂の夜は完全には眠らない。古時計の音、冷蔵庫の小さなうなり、木の床がときどき鳴る気配。長く住んだ家には、目を閉じても分かる音がある。
居間の隅に、先ほどの質札の束が置かれていた。
輪ゴムで止められたまま、卓上の灯りの下にある。
「……見るな、って言われたばかりなんだけどな」
小声で言い訳しながら、クリストルンは一枚だけ抜き取った。
日付は二十年前。
品目の欄には、読み慣れた字で「嫁入り道具」とある。
そして、預け主の名前の欄には——
「モンジェ」
胸の奥が冷たくなる。
質屋の帳場で見慣れてきた札だ。これは客の名前を書く欄だ。店主の名前ではない。預けた人の名前だ。
父が、自分の店に、自分の名前で、嫁入り道具を預けた。
その意味を考えた瞬間、のどが詰まる。
暮らしに困ったのか。何か大きな出費があったのか。なぜ母の品を。なぜ父が。
「何してる」
背後から声が落ちてきた。
振り返ると、モンジェが立っていた。寝巻きのままなのに、顔だけが妙にはっきり起きている。
クリストルンは質札を持ったまま立ち尽くす。
「これ……」
「返せ」
低く押し殺した声だった。
「お父さん、これ、どういうこと」
「返せ」
「嫁入り道具って、お母さんの箱のこと?」
「クリストルン」
いつもより短い呼び方だった。
怒鳴ってはいない。むしろ静かすぎて怖い。
「話して。お願い」
「今じゃない」
「じゃあいつ?」
「今じゃない!」
手を伸ばして、モンジェが札をひったくる。その勢いで輪ゴムが切れ、古い札が床に散った。
二人とも動かなかった。
広がった札は、まるで言えなかった年月そのものみたいだった。
先にしゃがんだのはモンジェだった。大きな背中が丸まる。
「……見せたくなかった」
その一言が、クリストルンの胸に落ちる。
「どうして」
「おまえに関係ない過去だ」
「私、お父さんの娘だよ」
「だからだ」
モンジェは顔を上げないまま言う。
「だから、見せたくなかった」
それきり、何を聞いても口を閉ざした。
クリストルンはその背中を見つめる。
豪快で、どこか頼りなくて、いつも自分の前に立っていた背中。
けれど今夜のそれは、初めて、追いつけないものに見えた。