遥が、少し乱れた息で「……触っていいよ」って言った瞬間、心臓が跳ね上がった。
目の前にいるのは、恋人――のはずだ。
けれど、その声の温度は、どこか諦めたようで。まるで、遥自身が自分を差し出すことに意味なんかないって、決めつけているみたいだった。
「……やめろよ」
やっとの思いで声を絞り出すと、遥が眉をひそめた。
「は? なんで……触っていいって言ってんだろ」
そんな風に言われたら、何も知らないやつなら、たぶん何も考えずにそうする。いや、自分も――もし遥じゃなかったら、もしかしたら流されてたのかもしれない。
けど。
日下部は唇を噛み締めた。
「それ、今のお前の本心じゃないだろ」
遥は睨んできた。でも、その目の奥にあるのは、怒りじゃなかった。
――不安だ。試してる。全部。
(そういうこと……何度もされてきたんだろ)
体に触れることでしか、つながれないと思ってる。
体を渡すことでしか、誰かに価値を見せられないと思ってる。
そんなの、苦しいに決まってる。
でも、それでも――正直に言えば。
日下部は、欲望を感じていた。
遥の乱れた呼吸も、熱っぽい視線も、手の甲に触れた一瞬の柔らかさも。全部、ちゃんと「男」として心をざわつかせる。
(だから、余計にダメなんだよ)
自分が欲望で動いたら、遥は「やっぱりそうだ」って、思ってしまう。
信じていたものが壊れないまま、また傷だけが深くなる。
――壊したくない。
遥の、これまで全部間違ってたかもしれないっていう「一歩目」を、壊したくない。
だから。
「我慢してんの?」
遥の問いは、静かだった。
日下部は、ゆっくり息を吐いて、頷いた。
「……ああ。してる。めっちゃ、してる」
遥の目がわずかに揺れた。
「じゃあ……なんで」
「お前が、無理しないでいてくれるなら……オレは、どれだけでも我慢できる」
それが、優しさだったかは分からない。
ただ、欲しいものを“奪う”んじゃなくて。
遥が“渡そうとしないもの”に手を伸ばさず、“それでも隣に立つ”ことを選んだ。
遥が“渡せる”と思えるまで、自分の欲を抑え、彼の痛みを否定せずにいることを。
※補足ポイント。
日下部は“男”としての反応をしているし、“欲望”も抱いている。
でも、それを遥にぶつけないように必死に堪えている。
それは遥のためでもあるし、日下部自身の“選びたい愛し方”でもある。
「我慢してるのか」と遥が聞くのは、自分に対する“興味”と“信頼の試し”でもある。