店に入った瞬間、空気で分かった。今日は、忙しくなる。
フリーが多い日。
女の子たちは、いつもより声を高くしている。
私は、少しだけ低くする。
「久しぶり」
そう言ったのは、例の常連だった。
賢い、と言う人。
私を評価する目を、隠さない人。
「お久しぶりです」
距離は、いつも通り。
近すぎない。
でも、離れてもいない。
席につくと、彼はグラスを傾けながら言った。
「この前のことさ」
分かってる。
ミオのこと。
「君、線を引いたよね」
私は、氷を一つ足した。
音で、間を作る。
「そうですか?」
「うん。
ああいう線を引く子、嫌いじゃない」
“嫌いじゃない”。
好きとも言わない。
でも、評価はする。
その言い方が、少しだけ腹に残る。
「損するよ」
前にも言われた言葉。
「でも、楽でしょう?」
私が言うと、彼は一瞬だけ黙った。
「……楽、か」
考える顔。
その沈黙が、嫌じゃなかった。
別の席から、若い男の声が飛ぶ。
この前の、無遠慮な人。
「ねえ、ナナちゃん!」
名前。
店の源氏名を、軽く呼ぶ。
私は、振り向かない。
今は、こっちの席にいる。
常連は、その様子を見て、少し笑った。
「モテるね」
「仕事なので」
そう言うと、彼は首を振った。
「今のは、仕事じゃない」
胸の奥で、何かが動く。
分かりたくないやつ。
「……名前で呼ばれるの、嫌?」
彼が聞いた。
「嫌じゃないです」
嘘じゃない。
でも、本当でもない。
「でも、誰でもいいわけじゃない」
その言葉が、先に出た。
出してから、後悔する。
彼は、私を見た。
評価じゃない目で。
「それ、勘違いさせるよ」
「勘違い、させたいわけじゃないです」
「じゃあ?」
問い返されて、答えに詰まる。
分からない。
ただ、軽く扱われたくないだけ。
そのとき、バックヤードからミオが顔を出した。
少しだけ、不安そう。
私は、彼女に目で合図する。
大丈夫、という意味。
常連は、そのやり取りを見ていた。
「君さ」
「はい」
「守る癖、あるよね」
否定できなかった。
「でも、自分は守らない」
その言葉で、息が止まる。
「それ、恋愛でも同じ?」
冗談みたいな口調。
でも、冗談じゃない。
私は、少しだけ笑った。
「恋愛、そんなに器用じゃないです」
「知ってる」
即答だった。
その夜、指名が入った。
彼からだった。
席に戻ると、彼は言った。
「今日は、延長しない」
理由を聞く前に、続ける。
「君が、考えすぎる顔するから」
優しさじゃない。
支配でもない。
一線引いた、大人の距離。
それが、妙に刺さった。
「また来ます?」
私が聞くと、彼は立ち上がりながら言った。
「来るよ。
ただし、次は名前で呼ばせて」
胸が、少しだけ熱くなる。
「……考えときます」
そう言った私の声は、
店用じゃなかった。
帰りの終電。
窓に映る自分の顔が、少しだけ違う。
誰かをかばったせいか。
それとも、
名前で呼ばれる未来を、想像したせいか。
どっちでもいい。
ただ、
仕事と恋愛の境界が、昨日より薄くなった
それだけは、はっきり分かった。






