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部屋の空気は、すでに汗と畳の匂いで重く濁っていた。遥は畳に崩れ、息を乱していた。
頬は赤く腫れ、唇が切れている。
誰かの足音が近づき、遠くで笑いがこぼれた。
「おい、起きろ。寝るなよ」
結城の足先が背を蹴る。
「せっかくの修学旅行だぞ? もっと楽しめよ」
言葉に、嘲りが混じる。
遥は答えず、ただ呼吸を整えようとした。
それすらも許されない。
「なぁ先生、こいつ、バスで寝てただけでムカつくんすよ」
ドアの向こうから現れた教師が、薄笑いを浮かべて部屋を覗いた。
「……またか。お前ら、本当に仲がいいな」
教師の声は、叱責ではなく、愉悦を含んでいた。
視線が畳に伏せた遥に向けられる。
「おい遥。修学旅行、楽しいか?」
返事を待たずに、結城が笑った。
「たぶん今が一番楽しいっすよ、こいつ」
部屋の隅からどっと笑いが起こる。
遥の胸が小刻みに震えた。
教師は一歩近づき、ゆっくりと膝を折る。
遥の顔の横に手をつき、低く囁いた。
「どうした。せっかくみんなと来たんだ。
“感謝の言葉”ぐらいあってもいいんじゃないのか?」
その言葉の意味を、遥は理解した。
「……ありがとうございます」
掠れた声でそう言うと、周囲の笑いがさらに膨らむ。
「ほら見ろ、ちゃんと挨拶できんじゃねぇか」
「な? こうやって言えば、可愛げあるんだよ」
教師の目は笑っていなかった。
「お前、ほんとに運がいいな。クラスに“理解ある仲間”が多くて」
遥の喉が詰まり、息が吸えなかった。
「……もう、やめてください」
かすれた声を出した瞬間、結城の手が後ろ髪を掴んだ。
「は? 何様のつもりだよ」
床に押しつけられた遥の頬が畳に擦れ、じわりと血がにじむ。
教師は止めない。むしろ、ゆっくりと腕を組んで見下ろしていた。
「おい、あんまりやりすぎんなよ。……明日の朝、腫れてたら面倒だ」
その声は、優しさではなく、“隠蔽のための管理”だった。
「はい、先生」
結城が笑いながら返事をする。
「でも、まだ“笑顔”が足りないっす」
「そうか。じゃあ、“教育”の一環として、笑わせてやれ」
笑いが起こる。
遥は自分の手が震えていることに気づいた。
怒りではなく、恐怖でもなく、
“人として扱われないこと”への絶望だった。
「なあ遥」
教師がもう一度名前を呼ぶ。
「お前さ、いつまで“被害者ぶる”つもりだ?」
遥の視界が滲んだ。
「ぶってねぇよ……」
「そうか? じゃあ見せてみろよ、“普通”の顔を」
結城が笑いながら指を鳴らす。
「ほら、笑えよ。せっかくの修学旅行だろ?」
遥は唇を噛み、無理やり笑った。
けれど、それは“笑顔”ではなかった。
歪んで、乾いて、どこにも届かない表情。
教師が満足げにうなずく。
「そうだ。ほら、やればできるじゃないか」
部屋の空気は静まり返り、誰も動かない。
笑い声が止んだあとも、遥の震えだけが続いていた。
外では夜風が旅館の障子を揺らしている。
その音が、まるで「現実」だけを告げているようだった。