テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
帰る時間が少しだけずれた。
どちらも遅いわけじゃない。ただ、同じタイミングではない、というだけ。
先に帰っていたのはアレクシスだった。
キッチンから湯気が上がっている。鍋の音。蓋がわずかに揺れている。
鍵の音で振り返る気配。
「……おかえり」
優しい声。
真白は靴を脱いで、鞄を床に置く。
「ただいま」
短く返して、コートを脱ぐ。
暖房の空気に触れて、肩の力が少し抜ける。
部屋の匂いを吸い込んで、真白はキッチンの方を見た。
「鍋?」
「うん。寒いから」
「いいね」
手を洗って戻ると、テーブルにはもう二人分の器が置かれていた。
野菜と肉が煮えている。湯気がゆっくり立ち上る。
真白は椅子に座る前に、少しだけ鍋の上に手をかざした。
熱を確かめるように。
アレクシスがそれを見る。
「冷えてる?」
「ちょっと」
「すぐ温まる」
蓋を開ける。
白い湯気がふわっと広がる。
その中で、真白の表情が少し緩む。
「いただきます」
「いただきます」
器に取り分ける。
真白は最初の一口をゆっくり食べた。
「……うまい」
「よかった」
それ以上は言わない。
でも、食べる速度が少しだけ早くなる。
しばらくして、真白が箸を止めた。
鍋の中を見る。
「まだある?」
「あるよ」
「じゃあもう少し」
「どうぞ」
アレクシスが取り分ける。
自然な動き。
真白は受け取って、また食べる。
テレビはつけていない。
音は、鍋の煮える音と、箸の小さな音だけ。
「明日、在宅?」
「うん。午前だけ会議」
「そっか」
「そっちは?」
「いつも通り」
短い会話。
でも、途切れない。
鍋がだいぶ減ってきた頃、真白が言った。
「全部食べる?」
「どうする?」
「……半分残す?」
「残す?」
「明日でもいいし」
少し考えて、アレクシスが言う。
「じゃあ、最後少しだけ食べて残そう」
「ん」
最後の具を二人で分ける。
器の底が見えて、鍋の火を止める。
食後、真白はソファに座った。
背もたれに体を預ける。
アレクシスがマグを二つ持ってくる。
「コーヒー」
「ありがとう」
受け取って、一口。
温かい。
真白は少しだけ横を向いた。
アレクシスが隣に座る。
肩が軽く触れる。
どちらも動かない。
「今日、寒かった」
「うん」
「でも、帰ってきたらあったかい」
「それはよかった」
真白は何も言わない。
でも、マグを持ったまま、少しだけ寄る。
そのまま、静かな時間が流れる。
湯気はもう消えている。
でも、部屋の中はまだ温かかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!