テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
3,829
五時間目のチャイムが鳴る。
昼休みは終わった。
教室の空気も、また授業用のものへ戻っていく。
遥は席に座ったまま、教科書を開いた。
頭は重い。
昨日から続く痛みも消えていない。
それでも授業は始まる。
止まってはくれない。
「じゃあ、この問題」
教師が教壇から顔を上げる。
嫌な予感がした。
そういう予感だけはよく当たる。
「遥」
名前を呼ばれる。
教室の視線が集まる。
心臓が一度だけ強く鳴った。
答えろ。
でも。
答えれば声を出したことになる。
黙れば授業妨害になる。
どちらを選んでも終わる。
教科書の文字が滲んだ。
「遥?」
教師がもう一度呼ぶ。
教室の空気がざわつく。
「聞いてるか?」
聞いている。
聞こえている。
全部分かっている。
だから困っている。
遥の指先がわずかに震えた。
答えなければ。
でも――
「先生」
不意に別の声が上がった。
遥が顔を上げる。
日下部だった。
「そこ、問題違くないですか」
「は?」
「答え合ってなくないです?」
教師の意識がそちらへ向く。
クラスの視線も流れる。
突然の横槍だった。
「いや、合ってるだろ」
「いや、違うと思いますけど」
「どこがだ」
そのまま言い合いが始まる。
大した内容じゃない。
正直どうでもいい話だった。
けれど。
遥には分かった。
わざとだ。
教師の注意を逸らしている。
自分に向いていた視線を横取りしている。
教師は数十秒後、面倒そうにため息を吐いた。
「じゃあ別のやつ」
別の生徒が当てられる。
授業が再開する。
何事もなかったように。
遥だけが取り残された。
教科書の端を握る指に力が入る。
胸の奥が妙に落ち着かない。
助かった。
その事実が重かった。
誰かに助けられることに慣れていない。
だからどう反応していいか分からない。
授業中。
一度だけ視線を上げる。
数列向こう。
日下部は何事もなかった顔でノートを取っていた。
こっちを見てもいない。
まるで本当に偶然だったみたいに。
その姿を見ていると、少し腹が立った。
(……なんなんだよ)
勝手に助けて。
勝手に誤魔化して。
勝手に知らない顔をする。
意味が分からない。
意味が分からないのに。
そのおかげで呼吸が楽になっている自分がいる。
もっと意味が分からなかった。
授業が終わる。
休み時間。
周囲が立ち上がる中、遥は机に突っ伏した。
眠いわけじゃない。
ただ疲れていた。
すると。
机の上に影が落ちる。
「お前」
聞き慣れた声。
遥は顔だけ上げた。
日下部だった。
「死にそうな顔してるぞ」
「うるせぇ」
「否定しろよ」
「うるせぇ」
日下部が笑う。
遥は再び机に額を押しつけた。
すると。
机の上に缶ジュースが置かれる。
小さな音。
遥は顔を上げる。
「……何これ」
「見りゃ分かるだろ」
「いや分かるけど」
「やる」
「いらねぇ」
「嘘つけ」
「いらねぇって」
「じゃあ返せ」
言われて。
遥は缶を掴んだまま止まった。
返さない。
返す気もない。
日下部が吹き出した。
「ほらな」
「……うるせぇ」
また笑われる。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
教室の中は相変わらずだ。
視線もある。
悪意もある。
息苦しさも消えない。
それでも。
ほんの少しだけ。
その全部から距離を取れる瞬間ができ始めていた。
そして遥はまだ気づいていない。
辛いとき。
苦しいとき。
気づけば探している相手がいることに。
その相手が近くにいるだけで、少しだけ楽になることに。
コメント
1件
第95話、読み終えたわ。日下部のさりげないかばい方、ほんとズルいよね。わざと問題違うって言って注目を逸らすとか、あんなこと普通できないし。しかも缶ジュース押し付けて去ろうとするからズルすぎる。遥が「返せ」って言われて掴んだまま固まるの、めっちゃわかるわ。助けられることに慣れてないのも、意味わかんないのに楽になってる気持ちも、すごく伝わってきた。この距離感、いいなあ🔥