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帰り道の空は、うすい金色から藍色へ変わりかけていた。
クリストルンは坂道を上りながら、今日のメモ帳を何度も開いては閉じた。そこには試作品の感想よりも大きく、ただ一言だけ書かれている。
こっちを見て
月椿堂の灯りが見えてくる。
引き戸の向こうには、いつもの父がいるはずだった。大きな声で、腹は減ってないかと聞いてくる父が。
けれど店先に立っていたモンジェは、思ったより静かだった。
夕暮れの色を背中いっぱいに受けて、店の前の鉢植えに水をやっている。椿のつぼみはまだ固い。
「ただいま」
「おう」
短い返事。
昨日の夜の続きは、まだ二人のあいだに置かれたままだった。
クリストルンは店に入らず、その場で立ち止まる。
「今日、工場でね。小さい子が、お父さんに『こっちを見て』って言ったの」
モンジェの手が止まった。
「……そうか」
「私、ちょっと分かった気がする。言えないことって、なくなるわけじゃないんだね。言えないまま、ずっと残るだけで」
水差しの先から、一滴だけ雫が落ちる。
「お父さんが話してくれないなら、無理にこじ開けるのは嫌だよ」
クリストルンは続けた。
「でも、なかったことにはしない。私は娘だから」
モンジェは振り向かなかった。
それでも耳は、ちゃんとこちらを向いていると分かる。
「子どもが言えない言葉も、親が言えない言葉も、玩具なら渡せるかもしれない」
胸ポケットからリボンを取り出す。夕暮れの光を受けて、やわらかな布が少しだけ明るく見えた。
「私、作りたい。そういう玩具」
「……大きく出たな」
「出るよ。うちの娘なので」
わざと父の言い方を真似すると、モンジェの肩がほんの少しだけ揺れた。
笑ったのか、息をついたのかは分からない。
その夜、部屋に戻ったクリストルンはノートを開く。
新しいページの一番上に、強く書いた。
子どもが言えない言葉も、
親が言えない言葉も、
渡せる玩具を作る。
その下に、もう一行。
父の過去も、取り戻す。
ペン先が紙を離れたとき、スマートフォンに通知が入った。
社内共有の資料更新連絡だった。何気なく開いたクリストルンは、そこで息をのむ。
廃番玩具整理一覧。
その備考欄に、見覚えのある名があった。
「椿」——焼却保留。経営企画室長判断。
エドワイン。
なぜ、もう終わったはずの玩具を、保留にするのか。
クリストルンは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。
父の過去は、思ったよりずっと、今につながっている。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙