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昼の校舎は、人が多いほど死角が増える。
階段裏。
窓のない踊り場。
体育倉庫の裏口。
誰かが止める必要がある種類の音は、
たいてい、そういう場所で消費される。
遥は、最初の一発で息を奪われた。
腹に沈んだ拳は鋭さよりも重さを残し、
肺の奥から空気を押し出す。
「――っ」
声にならない音が漏れた瞬間、
脇腹に続けて衝撃が入る。
前に倒れかけたところを、
靴先で足元を払われた。
床に転がった遥を見下ろして、
数人の影が笑う。
「ほら、やっぱ一人じゃん」
「なに? 日下部いないと動けねぇタイプ?」
笑い声が、軽い。
誰かが拾った噂を、
誰かが武器にしているだけ。
「捨てられたんだろ?」
その言葉が、はっきり耳に刺さる。
「見放されたって話、マジっぽいよな」
腹に、もう一度蹴りが入る。
今度は、わざと体重を乗せる。
息が詰まり、
反射的に身を丸める。
痛い。
でも、それより――
「可哀想だよな、日下部」
その言葉の方が、深く響いた。
「お前のために動いて、
結果これ?」
「そりゃ距離置くわ。普通に」
遥の喉が動く。
反論したい。
違う、と言いたい。
けれど、声を出そうとすると、
肺の奥が引き攣れて、
呼吸が乱れる。
「……っ、関係、――」
言いかけたところで、
背中に蹴りが落ちた。
床に顔がぶつかり、視界が揺れる。
「しゃべんなよ」
誰かが、楽しそうに言う。
「お前が言えば言うほどさ、
日下部が悪者になるって分かんね?」
言葉と一緒に、もう一度、足。
「いい迷惑」
「依存して、重くなって、捨てられた」
「典型じゃん」
遥は、歯を食いしばる。
――違う。
――捨てられてない。
そう思ってしまう自分が、
この場では、一番弱い。
日下部の名前が出るたび、
胸の奥が鈍く反応する。
信じたい心と、
信じてはいけないという自責が、
同時に揺れる。
「……言うな……」
かすれた声。
「日下部は……」
それ以上は、言えなかった。
腹に落ちた一撃で、
息が完全に折れる。
しばらく、誰も蹴らなくなる。
代わりに、靴音が離れていく。
「ま、忠告な」
背中越しに、誰かが言った。
「もう巻き込むなよ。
日下部のためにもさ」
去っていく足音。
残るのは、
乱れた呼吸と、
床の冷たさ。
遥は、しばらく動けなかった。
痛みが引くのを待つというより、
“起き上がる理由”を探していた。
――守られたいわけじゃない。
――でも、勝手に切り捨てられたことにされるのは、違う。
その矛盾だけが、
胸の奥で、まだ熱を持っていた。
◇
その頃。
教室では、別の空気が完成しつつあった。
「遥さ、最近ヤバくね?」
誰かの声。
「日下部も距離取って正解だろ」
「巻き込まれると面倒なタイプ」
蓮司は、その会話に加わらない。
笑わない。
止めない。
ただ、
“そういう話題が自然に流れる場”に
居続ける。
日下部は、机に向かったまま、
鉛筆を持つ手が止まっていた。
胸の奥が、ざわつく。
――今頃、何してる?
考えた瞬間、
その問い自体が“禁句”のように感じられ、
思考を切る。
蓮司が、何気なく言う。
「……無理しなくていい」
低い声。
「もう、関係ないことだろ」
その「関係ない」が、
何を指しているのか、
日下部には分かってしまった。
遥が殴られている事実。
遥に向けられている言葉。
それ全部をまとめて――
“関係ない”。
日下部は、何も言えなかった。
言えば、
この場所を失う。
守られている位置から、
弾き出される。
その恐怖が、
正しさより先に立つ。
放課後、
遥の席は今日も静かだった。
遅れて入ってきた遥を、
誰も見なかったことにする。
日下部だけが、
一瞬だけ、視線を向けて、
すぐに逸らした。
――見ていたら、戻れなくなる。
切り離しは、もう終わっていた。
誰の宣言もなく、
誰の合意もなく。
ただ、
そうあるべき形として。