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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
翌朝、目が覚めたとき、店は異様に静かだった。
モンジェはまだ戻っていない。
玄関の靴も、昨夜のままだった。
胸騒ぎを抱えたまま、クリストルンは母の嫁入り道具の箱を確かめに向かった。せめて設計ノートだけでも、もう一度きちんと読み返したかったのだ。
けれど、箱を開けた瞬間、指先が凍る。
二重底の下が、空だった。
「……ない」
椿の花びらの栞も、モンジェの設計ノートも、きれいになくなっていた。布の折り目だけが浅く残っている。昨夜まで、たしかにそこにあったのに。
クリストルンは箱を抱えたまま座り込んだ。
盗られた。
そう思った瞬間、ぞわりと腕に鳥肌が立つ。
店の戸締まりを確かめる。正面の鍵は閉まったまま。勝手口も壊された形跡はない。荒らされた様子もない。
つまり、置き場所を知っていて、静かに持っていける誰か。
「まさか」
昨夜、写真を見せたあとで口論になった。
父が持ち出したのかとも思う。けれど、胸のどこかで、それだけではない気配がしていた。
会社。
その言葉が浮かんだ途端、吐き気に似た寒気が走る。
自分の家の中まで、もう目を付けられているのかもしれない。
スマホが鳴った。
ルチノからだ。
『今日、出社したらすぐ俺のところに来い』
短い文面に、余計に嫌な予感が増した。
クリストルンは急いで支度をした。玄関を出る直前、ようやくモンジェが戻ってくる。髪が湿っていて、ひげの先にまだ雨粒が残っていた。
「お父さん、ノートが」
「今は行け」
モンジェはそれだけ言った。
目が合わない。
昨夜の言葉が、まだ二人の間に刺さったままだった。
夕べの謝罪も、ノートのことも、何ひとつ片づかないまま、クリストルンは坂を駆け下りる。
胸の中で、恐ろしさが少しずつ形を持ち始めていた。
誰かが先回りしている。
そして自分は、その手のひらの上に置かれようとしている。
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