テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
企画部へ入った瞬間、空気の向きがいつもと違うと分かった。
視線が散る。声が止まる。誰かが急いで画面を閉じる。
「何か、ありましたか」
クリストルンが聞くと、隣の席の先輩は曖昧に笑って首を振った。
けれど、その笑い方がいちばん答えになっていた。
ルチノの机へ向かう途中、レリヤが通路で待っていた。
「来ると思った」
「何が起きてるんですか」
「あなた、先に悪者にされたわ」
その一言で、心臓が嫌な音を立てる。
「機密資料の持ち出し。私的利用。元社員である親族との不適切な情報共有。今、だいたいそんな筋書き」
「そんなの、してません」
「知ってる」
レリヤはさらりと言った。
「でも、知ってるだけでは足りないの。広まる話は、証拠より先に走るから」
彼女はまだ味方の顔はしない。けれど、少なくとも敵の顔でもなかった。
会議室の前で、ルチノがエドワインと向き合っていた。
「根拠は」
低い声で問うている。
「根拠の薄い話を社内に流すな」
「流したのではなく、共有したのよ」
エドワインは平然としていた。
「調査のために必要な範囲で」
「必要な範囲を超えている」
「あなたの判断で?」
火花が見えるようだった。
クリストルンが近づくと、エドワインは視線だけを寄越した。
「ちょうどよかったわ。あとで事情確認の時間を取ります」
彼女が去ると、ルチノは深く息を吐いた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないです」
「そうだな」
否定しないところが、今は少しだけありがたい。
「でも、逃げません」
「逃がさない」
「どっちですか、それ」
「両方だ」
短いやり取りに、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
そのとき、ペトロニオが紙コップのコーヒーを二つ持って現れる。
「うわ、空気が苦い」
「今はやめろ」
「だから差し入れ。苦いものには苦いもので対抗」
クリストルンは思わず吹き出しそうになる。
「ありがとう、ございます」
「うん。でも、本気で言うね」
ペトロニオは声を落とした。
「これ、誰かが先に物語を作ってる。こっちもちゃんと書かなきゃ負ける」
物語。
その言葉に、クリストルンはエマヌエラの言葉を思い出す。
怒りを記録に変えなさい。
鞄の中のノートを握る。
午前十時十二分。社内で機密持ち出しの噂。レリヤより通達。ルチノが抗議。エドワイン、事情確認を予告。
文字にした瞬間、少しだけ自分の輪郭が戻る。
濡れ衣は重い。
けれど、着せられたまま固まるつもりはなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
空乃 美晴
1,141
89
雨晒しの原稿用紙
163