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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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そのころ白椿トイズでは、ルチノとディトが資料室にこもっていた。
机の上には、二十年前の試算表、量産計画書、安全確認書、当時の開発メモが広げられている。紙の色はくすんでいるのに、書かれた数字だけがやけに生々しかった。
「こっちの原価表と、こっちの承認済み資料。部材数が合わない」
ルチノが言う。
ディトは腕を組んだまま、低く返した。
「安全部材を一つ削ってる」
「削ったぶん、単価が落ちる」
「その代わり、角が当たったときの基準を満たさなくなる」
空気が重く沈む。
それは単なる記載漏れでは済まない差だった。
そこへレリヤが、分厚いファイルを抱えて現れた。息を切らしながら机に置く。
「数字の並び、見覚えがあったの」
「君が自分から走るなんて珍しいな」
ディトが言うと、レリヤはにらみ返した。
「今は嫌味を言う時間も惜しいの」
彼女はページを開き、管理番号の記入癖を指で示す。
「このゼロの書き方。最後だけ少し斜めに流れる。今の経営企画室で使ってる修正癖と同じ」
「二十年前の書類だぞ」
ルチノが息をのむ。
「ええ。でも、帳簿って、人の性格が残るのよ。計算は苦手でも、それくらいは分かる」
レリヤは別の紙を抜き出した。
当時の承認印の写し。量産を急ぐための特別決裁欄に、経営側の印がある。
「現場の独断じゃない」
彼女が言う。
「むしろ、現場が止めたかった。止めた痕跡がある」
ディトがモンジェの名前の入った開発メモを開く。そこには、布の厚みと内部部材の危険性について、几帳面な字で何度も赤線が引かれていた。
『このままでは、子どもの頬に当たった場合の安全が担保できない』
『量産延期を提案』
『再試験が必要』
ルチノは、その筆跡を見つめる。
厳しくて、まっすぐな言葉だった。責任逃れのために書く文章ではない。
「止めようとしていたのは、モンジェさんのほうだ」
口にした瞬間、部屋の空気が変わった。
ディトは低くうなずく。
「当時の現場じゃ、それはみんな知ってた。だが、知ってるだけじゃ足りなかった」
ルチノが拳を握る。
「じゃあ、どうして一人で背負わせた」
ディトはすぐには答えない。
窓の外を見てから、ようやく言った。
「会社が傾きかけてた。新作を落とせば大口取引が飛ぶ。上は止められなかった。で、最後に現場の責任にした」
「それが本当の罪か」
ルチノの問いに、レリヤが静かに首を振る。
「違う。もっと悪いのは、そのあと誰も正し直さなかったこと」
その言葉は、今の白椿トイズにも向いていた。
ただの過去の失敗ではない。隠し、黙らせ、数字を整え、人の人生を横にどけてきた流れが、まだ会社の中に残っている。
ルチノは深く息を吸い、資料をまとめた。
「父に会う」
ディトが眉をひそめる。
「家族の話になるぞ」
「もう会社の話だけでは済まない」
レリヤは机の端に残った承認印の写しを見つめて、小さくつぶやいた。
「数字は嘘をつく。でも、嘘のつき方には癖がある。……やっと、追いついた」
本当の罪は、事故寸前の判断だけではなかった。
誰かが止めた事実を消し、止めようとした人間に責任を着せ、長い年月そのままにしてきたこと。
その重さが、ようやく紙の上で形を持ち始めていた。