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#角名倫太郎
紫 憂 .
74
営業が折り返す頃。
店の中は、不思議な静けさに包まれていた。
騒がしいわけじゃない。
暇なわけでもない。
笑い声とグラスの音が、ちょうどいい間隔で重なっている。
私は三崎さんの席を立って、次のテーブルへ向かう。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
短い会話。
いつも通り。
三崎さんは引き止めない。
延長を匂わせることもしない。
その代わり、帰るまでずっと周りを見ている。
誰が席を立ったか。
誰が笑ったか。
誰が少し疲れているか。
そんなことまで見えているような目だった。
私はその視線を背中に感じながら、別の席へ向かう。
「ナナちゃん」
振り向く。
高槻さんだった。
「やっと来た」
「そんなに待たせました?」
「十分」
大げさに腕時計を見る。
「十五年くらい」
「長すぎます」
思わず笑う。
「ちゃんと待ってましたよ」
「ありがとうございます」
「その言い方、他のお客さんにもしてる?」
「してます」
「正直」
「嘘ついてもばれそうなので」
「確かに」
高槻さんは笑う。
「俺、顔に出るタイプ?」
「出ます」
「どこが?」
「全部です」
「ひどいなあ」
言いながらも楽しそうだ。
この人は、会話を止めない。
止めさせない。
相手が返しやすい言葉を選ぶのが上手い。
「今日さ」
グラスを持ったまま私を見る。
「真瀬さん来てるね」
私は少しだけ驚く。
名前が出るとは思わなかった。
「知り合いなんですか?」
「いや」
首を振る。
「何回か見かけるから」
「ああ」
そういうことか。
同じ曜日。
同じくらいの時間。
常連同士なら、店で顔を合わせることもある。
「話したことは?」
「ないよ」
「じゃあ、見かけるだけですね」
「そう」
高槻さんは少しだけ真瀬さんの席を見る。
すぐに視線を戻す。
「静かな人だよね」
「そうですね」
「ナナちゃんとは、よく話してる気がする」
「そう見えます?」
「見える」
即答だった。
「俺とは話し方、違うし」
胸が少しだけざわつく。
そんなつもりはなかった。
少なくとも、自分では。
「仕事ですから」
反射みたいに答える。
高槻さんは苦笑した。
「またその言葉」
「便利なんです」
「便利すぎる」
少しだけ間が空く。
「でも」
珍しく、高槻さんの声が落ち着く。
「人ってさ」
私は顔を上げる。
「好きな相手には、無意識に話し方変わるよ」
その一言に、息が止まりそうになる。
「私は変わってませんよ」
すぐに返す。
「そう思ってる?」
「……はい」
「そっか」
それ以上は何も言わない。
冗談にすることも。
追いかけることも。
ただグラスに口をつける。
その沈黙が、少しだけ珍しかった。
「失礼します」
黒服が近づいてくる。
「ナナ、真瀬様から場内です」
私は一瞬だけ目を閉じた。
「分かりました」
席を立つ。
「ごめんなさい」
「行っておいで」
高槻さんは笑う。
いつもの笑顔。
でも。
「ナナちゃん」
呼び止められて振り返る。
「また戻ってきて」
軽い言い方。
軽い笑顔。
なのに。
その一言だけは、少しだけ重く聞こえた。
私は小さく頷いて、真瀬さんの席へ向かった。
コメント
1件
寺島あおいです🤍 第45話、読ませていただきました。 高槻さんの「好きな相手には、無意識に話し方変わるよ」のセリフ、じんわり響きました。ナナちゃんが「変わってません」と反射で返すところに、彼女の心の揺れが滲んでいて。それ以上追及せずグラスに口をつける高槻さんの距離感も、大人っぽくて素敵でした。 「また戻ってきて」という軽い口調の一言が、なぜか胸に残りますね。お互いの間にある、言葉にできない空気を丁寧に描かれていて、とても惹き込まれました。続きが気になります🌷