そこで麻子はハッと我に返る。
(随分昔の事を思い出していたわ……フフッ、私ももう歳ね……)
麻子は目の前のオルゴールを懐かしそうに手に取る。そこへ販売員が近づいて来て言った。
「そのオルゴールは今年いっぱいで閉館になる北海道のオルゴール博物館の物なんですよ」
麻子はその博物館の事を知っていた。なぜならその博物館があるのは健介の実家がある街だったからだ。
あの時健介から贈られたオルゴールは結婚前に処分した。
それを持ったまま結婚するのは幸次に申し訳ないと思ったからだ。
しかし今目の前にはあの時と同じオルゴールがある。
「すみません、これをいただけますか?」
麻子はオルゴールを買って帰る事にした。あの時健介にしたひどい仕打ちに対するせめてもの償いに。
そしてオルゴールを捨てた事をずっと後悔している自分自身の為に。
オルゴールを購入した麻子はデパートを後にした。
マンションへ戻った麻子は玄関の鍵を開けて中へ入った。
築22年のマンションは10年前に中古で購入したものだ。
麻子は30歳の時に幸次と離婚をしてバツイチだった。当時まだ幼かった娘は麻子が女手一つで育てた。
その娘の亜由美(あゆみ)ももう27歳。
亜由美は大学を出た後就職と同時に家を出て、今は婚約者と共に都心のマンションで暮らしている。
その亜由美ももうすぐ結婚する。娘の結婚が決まり麻子も漸く肩の荷が下りた。
「ただいま」
誰もいない部屋に入ると麻子はオルゴールの入った紙袋をテーブルに置いた。そしてすぐに箱から出してみる。
見覚えのある可愛らしいオルゴールを手に取ると、麻子は裏にあるネジを巻いた。
あの日健介から贈られたオルゴールは、一度も音を聴かないまま処分した。
なぜ音を聴かなかったのかというと、オルゴールの優しい音色を聞いてしまったら心が壊れそうな気がしたからだ。
でも長い年月を経た今なら素直に聴けそうだ。そして麻子はすぐに音を鳴らしてみた。
~~~♪~~~♪~~~♪
流れてきた曲はリストの『愛の夢』だった。
麻子はこの曲が好きだと健介に話した事がある。健介はそれを覚えていてくれたのだ。
切なく優しい音色を聴いていると、麻子の瞳からとめどなく涙が溢れてくる。
あなたはどんな思いでこのオルゴールを買ったの?
あなたはどんな思いでこの曲を選んだの?
あなたはどんな思いでこのオルゴールを私に贈ってくれたの?
麻子は嗚咽を漏らし泣き続ける。
切なく優しいそのメロディーは、長い間凍り付いていた麻子の思いを一瞬にして溶かす。
そしてその思いは涙と一緒に溢れ出す。
(あなたに会いたい…会ってお詫びをしたい……ごめんなさい…どうかあの時の私を許して……)
麻子は泣けて泣けて仕方がなかった。そしてしばらくの間声を出して泣き続けた。
翌日、仕事が休みだった麻子は一通り家事を終えるとダイニングテーブルの上でノートパソコンを開いた。
そしてSNSの投稿サイトで『小澤健介』という名前を検索してみる。すると同姓同名がいくつもヒットした。
途端に麻子の心臓がドキドキし始める。
(この中にいるとは限らないのよ。単なる同姓同名かもしれないし)
麻子はそう自分に言い聞かせると、『小澤健介』というプロフィールを一つずつ見ていく。
一人目の小澤健介は現役の大学生だった。
二人目の小澤健介は国立大学の医学部の教授だった。
三人目の小澤健介は画像を見るとまだ高校生のようだ。
四人目の小澤健介はフランス在住の画家だったので、これも違う。
五人目、六人目…も別人だった。
そして七人目のプロフィール画像を見た瞬間、麻子は思わず息を呑む。
なぜならその写真の笑顔には見覚えがあったからだ。
それは紛れもない健介の姿だった。
健介は少し皺があったが当時のままの爽やかな笑顔を浮かべていた。
その写真を見た途端麻子の目に涙が滲む。
しかし泣いている場合ではない。麻子は一度深呼吸をしてから健介の投稿内容をチェックした。
すると最新の投稿にはこう書かれていた。
【無事に手術が終わりました。余命宣告をされなかったって事はまだ望みはあるのかなぁ?】
その投稿には写真が添付されていた。写真には病院の病室と思われる天井と点滴が写っている。
「えっ?」
健介は入院しているのだろうか? 『余命宣告』とはどういう意味なのか?
麻子は軽くパニックを起こしていた。しかしなんとか落ち着こうともう一度深呼吸をするとその写真がいつ投稿されたものかをチェックした。
【2024年8月20日】
(3ヶ月前? でもそれ以降投稿がないわ……え? どういう事?)
焦った麻子は慌てて画面をスクロールし、健介の過去の投稿をチェックしてみる。
それ以前の投稿は、週に一度くらいのペースで続いていたようだ。
投稿は主に仕事の合間に入ったと思われるラーメン屋や蕎麦屋の写真、それ以外には居酒屋や寿司店の料理の写真もある。
外食をする度に写真を撮って投稿しているようだ。
(ご家族は? きっと結婚しているだろうから家族に関する投稿があるかもしれない……)
そう思った麻子は更に画面をスクロールして過去に遡ってみる。しかしその中に家族を匂わせるような投稿は一つもなかった。
投稿内容や写真からは何も手掛かりが掴めないので、今度は投稿に寄せられた知人からのコメントをチェックしてみる。そこからなら何かヒントを得られるだろう。
麻子が一つ一つコメントを読んでいくと、健介の知人からのこんな書き込みがあった。
【ラーメンばっかり食べてると成人病になって孤独死コースだぞ。もっと野菜を食え!】
【うるせえなぁ、バツ2のお前に言われたくないわ】
【お前だってバツイチの癖にw】
(え? 彼もバツイチなの?)
麻子は驚く。
他のコメントを見ていくと、健介は今独身で一人暮らしをしているようだった。
もし健介が本当に独身なら、メッセージを送っても大丈夫だろうか?
麻子は覚悟を決めると、震える手で健介宛にメッセージを打ち込んだ。
【ご無沙汰しております、瀬戸麻子です。偶然こちらの投稿を拝見し、最後の投稿が気になったのでメッセージしてみました。もしご迷惑でなければ今お元気かどうかだけでも知らせていただけると嬉しいです】
(私の事覚えてるかな? これだけだとわからないかも?……あ、そうだ)
そこで麻子は昨日買ったオルゴールをスマホで撮影する。その写真をメッセージに添付した。
そして送信ボタンを押す前に、本当にメッセージを送っていいものか悩む。
しかしその後意を決して「えいっ」と送信ボタンをクリックした。
それから一日が経ち、二日が経ち、三日が経った。
麻子は自宅でも外出先でも頻繁にメッセージをチェックしていたが健介からの返事はない。
更に四日が経ち五日が経ち、一週間が過ぎた。
それでも返事は来なかった。
二週間待っても返事はなかった。そして三週間経っても何もない。
三週間を超えた頃には麻子も段々と諦めの境地に達していた。
(やはり彼はもうこの世にはいないの?)
思わず涙が溢れてくる。
自分は健介に一言謝りたかったのだ……ただそれだけなに……。
まさか謝る事さえ叶わない状況になっているとは思いもしなかった。
絶望感に打ちひしがれた麻子は両手で顔を覆うとすすり泣く。
ピコンッ
その時パソコンから着信音が聞こえた。
(えっ?)
麻子は涙を手で拭うと慌ててメッセージを開く。
するとそこには健介からの返事が届いていた。それを見た瞬間麻子の目に涙が溢れる。
【メッセージありがとう! 久しぶりだね、びっくりしたよ。心配かけちゃったみたいだけど僕は元気にしています。だから安心して下さい(笑)】
メッセージを読んだ麻子は大声で泣き始めた。
彼は生きていた、そして返事をくれた。
麻子は心からホッとして大声でむせび泣く。泣きながら頭の中にはあの頃の想い出が走馬灯のように過っていった。
麻子が泣き続ける背後では、あのオルゴールが
チロリンッ♪
と優しい音色を奏でた。
三週間後、麻子は電話をしていた。もちろん相手は健介だ。
あれから二人は何度かメッセージを交換し互いの近況を報告し合った。
麻子が独身だとわかると、健介からは毎日何通ものメッセージが届くようになる。そして今週に入ってからは直接電話で話すようになった。
「初めてのデートで観た映画覚えてる?」
「うん。お腹が痛くなるほど笑ったアドベンチャーの映画でしょう?」
「そう。あの映画の続編が来週から始まるんだよ。一緒に行かないか?」
麻子は嬉しくて胸がジーンとする。しかし戸惑いもあった。
健介には会いたいのはやまやまだが、歳を取り劣化した自分の姿を見られるのは嫌だ。
そんな麻子の戸惑いに気付いた健介はこう言った。
「僕は白髪もあるし皺も増えたよ……お互い歳を取ったんだから当然だろう?」
「あなたの写真はSNSで見たわ。あの頃と全然変わってない…。でも私は駄目よ…昔と全然違うもん」
「僕は全然気にしないよ。それに苦労して女手一つで娘さんを育てたんだろう? だったら『老い』も勲章だと思えばいい」
「でも……」
「オルゴールを捨てた事を僕に謝りたかったんだろう? じゃあ会ってちゃんと謝って欲しいな」
健介の声はとても甘く優しかった。そんな引き込まれるような声に抗う事は出来ない。
「わかったわ。でも私を見てがっかりしないでね」
「大丈夫だ。じゃあ来週の日曜日、時間はまた追って連絡するよ」
「わかった。じゃあまたね」
「うん、おやすみ」
日曜日、二人は都心のターミナル駅にあるカフェで待ち合わせをした。
麻子はカフェに入る前に店内を覗く。すると何組もの若いカップルが楽しそうに会話をしている。
若者の中に混ざると余計に老けてみえそうな気がして麻子は気後れする。出来ればこの場から逃げ出したい。
(でもここで逃げ出したら前と同じ事を繰り返す事になるわ。だから勇気を出して会わないと…そして彼にきちんとお詫びをするのよ)
麻子は勇気を出してカフェの中へ入った。
「いらっしゃいませ」
「あ、待ち合わせなんですけど…」
麻子はスタッフにそう告げると店内をキョロキョロと見回す。
すると窓際に座っている健介の姿を見つけた。
「あ、あそこに連れがいますので」
「はい、では後でお冷をお持ちいたしますね」
カフェのスタッフは笑顔でバックヤードに戻って行った。
麻子は意を決して健介の傍へ近付いていった。
麻子がテーブルの横まで近づくと窓の外を眺めていた健介がこちらを振り向いた。その途端パァッと笑顔を浮かべる。
「来てくれたんだね、ありがとう」
麻子はうんと頷くと健介の前に座った。
目の前にいる健介はあの頃のままの健介だった。懐かしい面影につい涙が出そうになる。
しかし麻子はその涙をグッと我慢し、ずっと言いたかった言葉を口にした。
「あの時は本当にごめんなさい。ひどい事をしたとずっと後悔していました」
麻子はテーブルに額がつきそうなほど深く頭を下げる。
すると健介が慌てて言った。
「わかったよ、もういいから顔を上げて」
「でも……」
「そんなに申し訳ないと思うなら、僕の頼みを聞いてくれるかい?」
「頼みって何?」
「僕ともう一度やり直してくれないか? 今度はちゃんと君の心に寄り添うよう僕も努力するから」
健介は優しい眼差しで麻子を見つめている。
一方麻子の瞳からはみるみる涙がこぼれてきた。麻子はその涙を手で拭うと小さくうんと頷いた。
あの頃私達は若かった。
若さ故に気付けない想いも沢山あった。
そしてあの頃気付く事の出来なかった想いは、時を隔てて真実の愛に変わっていた。
チロリンッ♪
【オルゴール】<了>
コメント
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素敵なお話でした。ほんとハッピーエンド!心が温かくなりました。
私も25年たってお互いバツついてよりが戻ったので、おばちゃんになったから…と思う気持ちすごーくわかる!若い頃を知ってる人だから余計に、ね〜。 人生最後の恋、麻子ちゃん健介さん幸せになれ〜
オルゴールの音色はノスタルジックな気持ちになります。 思い出を連れて来てくれる音が、本当に初恋の彼を連れて来てくれたなんて、なんだかファンタジー感ある展開でした♪