テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
その夜の食卓には、いつもより湯気が多かった。
モンジェが張り切って大鍋で煮込んだせいだ。嬉しいことがあると量が増える。困ったことがあると、もっと増える。クリストルンは子どものころから、その分かりやすい癖に付き合ってきた。
「今日な、会社で——」
話しかけてから、言葉を選ぶ。
新人研修の話をするつもりだった。エマヌエラの指示の的確さや、ペトロニオの軽口や、ルチノの厳しさや、会議室での緊張。
でも、口の中に残っていたのは別の名前だった。
「お父さん、昔、この会社にいた?」
湯気の向こうで、モンジェの箸が止まった。
「は?」
「白椿トイズ。今日、資料室で古いくまを見たの。耳の縫い方が、お父さんの直し方に似てて」
一拍。
それからモンジェは、わざとらしいほど大きな声で笑った。
「はっはっは! 天下の大会社と俺が同じ縫い方? そりゃ向こうが真似したんだろ」
「そういう笑い方するとき、だいたい何か隠してるよね」
「娘が鋭すぎる」
クリストルンは箸を置いた。
「いたの?」
「……昔の話だ」
「いたんだ」
「いただけだ。大したことじゃない」
そう言って味噌汁を取ろうとしたとき、モンジェの肘が机の端に当たった。
輪ゴムで束ねてあった質札の束が床に落ち、ぱらぱらと散る。
「あっ」
「大丈夫?」
クリストルンがしゃがみ込んで拾い集める。古びた札は、最近のものより紙が固く、端が少し茶色い。日付の欄に、二十年前の数字が並んでいた。
モンジェが慌てて手を伸ばす。
「それはいい」
「いいって、片づけるだけだよ」
何気なく一枚を裏返しかけた瞬間、モンジェがいつになく鋭い声を出した。
「見るな!」
部屋の空気が止まった。
クリストルンの指先で、質札がかすかに揺れる。
モンジェは我に返ったように目を伏せた。大きな肩が、少しだけ落ちる。
「……悪い」
「お父さん」
呼んでも、父はすぐに笑い直せなかった。
やがて散らばった札を集めながら、低い声で言う。
「古い札だ。捨てそびれてただけだ」
「白椿トイズにいたことと、その札、関係あるの」
「ない」
「ほんとに?」
「……今は飯食え。冷める」
話を切るための言い方だった。
クリストルンはそれ以上問えなくなる。
問い詰めたいのに、目の前の父の横顔が、急に遠く見えたからだ。
その夜、自分の部屋に戻ってからも、あの声が耳に残った。
見るな。
あれは叱る声ではなく、怯える声に近かった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!