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その人は、時間通りに来た。遅れもしないし、早すぎることもない。週に一度、同じ曜日、同じ時間帯。
「今日も忙しそうだね」
そう言いながら、伝票を見る癖がある。金額を確認しているわけじゃない。ただ、現実を一回通すみたいな目。
「まあね」
適当に返すと、彼はそれ以上踏み込まない。
グラスを作って、乾杯する。話題はいつも似ている。仕事の愚痴、部下の話、最近眠れない話。名前を出さない誰かが、いつも話の中心にいる。
「家では、あんまり話せなくてさ」
何気なく出た一言。私の反応を確かめるような間があった。
「そうなんだ」
深入りしない。それが一番、長く続く。
「ここだと、聞いてもらえるから」
聞いてもらえる場所。選ばれた理由が、少しだけ見える。
別の席に目をやると、若い男の人が、落ち着かない様子で座っている。スーツは綺麗だけど、靴が少し古い。指名の子に、何度も同じ話をしている。
「大丈夫だよ」
女の子がそう言って、グラスを合わせる。その声は優しいけど、少し急いでいる。
戻ってきた客が、ふっと笑う。
「無理してる人、多いよね」
誰のことを言っているのかは、分からない。
「昔の自分見てるみたいでさ」
その言い方に、何も返せなかった。
延長の確認が入る。彼は少し考えてから、首を横に振った。
「今日は、ここまで」
理由は言わない。余裕なのか、限界なのか、それも分からない。
会計のとき、財布の中を一瞬だけ見せる。カードが何枚かと、現金は少なめ。それを、私は見なかったことにする。
「また来るよ」
軽い言葉。でも、予定表に書き込まれている感じ。
席を立つ前、彼は少しだけ声を落とした。
「ここ、なくならないでね」
願いみたいな言い方。
「なくならないよ」
即答する。でも、それは約束じゃない。
営業後、フロアが静かになる。誰かの事情が、空気に残っている。
客は、金だけ置いていくわけじゃない。生活の断片とか、弱さとか、言えなかったこととか。全部、席に置いて帰る。
それを毎晩受け取っている自分が、何者なのか分からなくなるときがある。
でも、明日もまた、同じ時間にドレスを着る。それが、今の私の日常だ。