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#角名倫太郎
紫 憂 .
75
夜の仕事が休みの日。
昼の街は、夜とはまるで違う。
歩く人の速さも。
聞こえる声も。
時間の流れも。
私は駅前のベンチで、紙コップのコーヒーを両手で包んでいた。
少し早く着きすぎた。
スマホを見る。
『もう着く』
短いメッセージ。
それだけで十分だった。
五分もしないうちに、人混みの向こうから見慣れた姿が歩いてくる。
「待った?」
「今来たところ」
「その返し、信用できない」
少し笑われる。
「本当ですよ」
「じゃあ信じる」
それで終わる。
疑わない。
深く聞かない。
そういうところが、この人らしい。
「寒くない?」
「今日は大丈夫です」
「ならよかった」
歩き出す。
目的地なんて決めていない。
駅前をゆっくり歩くだけ。
それで十分だった。
「最近忙しい?」
「まあ、それなりに」
「そっか」
仕事のことは聞かない。
何の仕事かも聞かない。
忙しいかどうかだけ。
私はその距離感が好きだった。
「そっちは?」
「変わらないよ」
「変わらないのが一番ですね」
「そう思えるようになった」
少しだけ笑う。
「前は違ったんですか?」
「前は刺激ばっかり探してた」
「今は?」
「静かな方が落ち着く」
その言葉に、私は返事をしなかった。
なんとなく。
分かる気がしたから。
信号が赤になる。
二人で立ち止まる。
目の前を学生が走っていく。
親子連れが笑っている。
誰も私たちを見ていない。
それが少しだけ楽だった。
「コーヒー飲む?」
「さっき買いました」
紙コップを見せる。
「ほんとだ」
「そっちこそ飲みます?」
「じゃあ一本もらおうかな」
コンビニに寄る。
温かい缶コーヒーを一本。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ベンチに座る。
しばらく話さない。
缶を開ける音だけが響く。
沈黙なのに、気まずくない。
埋めようとしなくていい。
笑わせようとしなくていい。
何かを期待されることもない。
私はぼんやり空を見上げた。
「今日、休み?」
「うん」
「ゆっくりできてる?」
少し考える。
「こうしてるから、できてるかもしれません」
その人は私を見た。
「よかった」
たった一言。
それだけだった。
でも、その一言に理由はなかった。
褒めるわけでも。
慰めるわけでも。
励ますわけでもない。
ただ、そう思ったから口にした。
そんな言い方だった。
私はコーヒーを一口飲む。
温かい。
「また時間あったら」
その人が立ち上がる。
「散歩でもしよう」
「いいですね」
「連絡する」
「待ってます」
駅前で別れる。
手を振るわけでもなく、
振り返るわけでもなく。
自然に別々の方向へ歩き出す。
ふと気づく。
この人と会うときだけは、
私は仕事の顔を思い出さない。
キャバ嬢でもなく。
接客でもなく。
ただ、今日を過ごしている私でいられた。
コメント
1件
うわあ……すごく好きな空気感でした。何も起こらないのに、心がじんわり温かくなる。主人公が「キャバ嬢でもなく、ただ今日を過ごしている私でいられた」って気づくところ、胸が熱くなりました。沈黙が気まずくない関係って、本当に尊いですよね。お二人の距離感が絶妙で、私もベンチで一緒にコーヒー飲んでる気分になりました。素敵なお話をありがとうございます🌷