テラーノベル
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日下部は一度だけ周囲を見る。
職員はまだ扉の外にいる。
中へ入る気配はない。
「どうすんだ」
投げやりな声が背中から落ちる。
日下部は振り返らない。
「保健室に連れて行きます」
それだけ言って、視線を遥へ戻した。
返事は待たない。
待てる状態でもない。
肩を支える。
立たせるというより、倒れないように支える形だった。
遥の身体は重いというより、力が抜けている。
一歩動くたびに、日下部の腕に体重がずしりと乗る。
それでも手は離さない。
廊下へ出ると、職員はもう倉庫へ視線を戻していた。
興味が戻る場所ではない、とでも言うように。
日下部はそのまま歩き出す。
廊下はいつも通りのはずなのに、やけに遠く感じる。
すれ違う生徒が一瞬だけこちらを見る。
すぐに視線を逸らす。
何も見ていないふりをするのが早い。
遥の呼吸は浅いままだった。
ときどき、足が止まりかける。
そのたびに日下部が支え直す。
「……歩けるか」
問いかける。
返事はない。
ただ、わずかにまばたきがあるだけだった。
それを確認して、日下部はそれ以上何も言わない。
保健室の前に着くと、扉を開ける。
中の教師が顔を上げる。
一瞬だけ状況を見る。
そして、すぐにベッドの方へ視線を移す。
「横にして」
短い指示。
日下部はそのまま遥をベッドへ導く。
座らせるようにして、ゆっくりと横に倒す。
布団が揺れる。
その瞬間、遥の呼吸がわずかに乱れる。
日下部はそこでようやく手を離した。
立ったまま、しばらく動かない。
保健室の音だけが小さく響いている。
教師が準備を進める気配。
カーテンの擦れる音。
体温計のケースを開ける音。
その全部が遠く感じる。
日下部はベッドの横に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
遥は薄く目を開けている。
何かを見ているようで、見ていない。
日下部はそれに気づいても、呼びかけない。
代わりに、短く呟く。
「……気づいてたのに、間に合わなかったな」
それは誰に向けたものでもなかった。
ただ、そこに残った言葉だった。
遥は目を閉じかけながら、ぼんやりと天井を見ている。
何かを考えようとして、うまく形にならない。
ただひとつだけ、薄く残っている感覚があった。
――まだ、ここにいる。
それが誰なのか、うまく認識できないまま、意識がゆっくり沈んでいった。
コメント
1件
うわ、第32話、重かったですね……。日下部さんの「間に合わなかった」という呟きが、胸にずしんと来ました。彼がどれだけ必死に遥さんを支えていたか、廊下の遠さや他の生徒の目を逸らす描写で嫌というほど伝わってきた。保健室に着いても手を離せないでいる日下部さんの心情が切ないです。遥さんの「まだ、ここにいる」という感覚も気になりますね。続きが本当に待ち遠しいです!
まい
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