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相談室の椅子に深く座り込んだまま、しばらく視線が上がらなかった。
床を見つめるその姿は、叱られるのを待っているみたいにも見えた。
「……前はさ」
ぽつりと始まる。
「もっとできたんだよ。ちゃんと耐えてたし、休まなかったし」
日下部は、何も言わずに聞いている。
「今は、無理。頑張ろうって思っても、体が先に拒否する」
指先が、膝の上でぎこちなく動く。
「それが一番ムカつく。サボってるわけじゃないのに。やれてない自分の方が、甘えてるみたいで」
日下部は、少しだけ眉を寄せた。
「……自分には、結構厳しいな」
「当たり前だろ」
反射的に返ってくる。
「できてた頃の自分、知ってるから」
言い切る声は強いのに、どこか脆い。
「周りからはさ、“無理しなくていいよ”とか言われるけど」
鼻で笑う。
「それ言われるたびに思う。いや、無理しなきゃ何も残んないだろって」
沈黙。
日下部は、机に視線を落としたまま言った。
「……前の自分を、基準にしてる?」
「当たり前だろ。一回できたんだから」
日下部は、少し考えてから口を開く。
「それさ、一番しんどいやつだ」
顔が上がる。
「できてた過去があると
今の限界、全部“言い訳”に見える」
責める調子じゃない。
むしろ、実感がこもっていた。
「“昔はできた”って、今の自分を追い詰める言葉だ」
相談者は、奥歯を噛む。
「……でも、できなくなった事実は変わらない」
「変わらないな」
日下部は、あっさり認めた。
「でもさ、事実と評価、混ざってないか」
「評価?」
「“できなくなった”は事実、“だからダメ”は、評価」
少し間を置く。
「その評価、誰が下してる?」
答えは分かっていた。
だから、口に出すのが遅れる。
「……俺」
日下部は小さく頷く。
「一番容赦ない審査員だな」
苦笑いみたいな空気が落ちる。
「前はできた、昔は耐えられた、今はできない」
日下部は、指を一本立てる。
「ここまでは事実」
次に、もう一本。
「“だから今の自分は価値が下がった”
これは、ただの仮説」
相談者は、目を伏せる。
「でもさ。
頑張れなくなった自分、信用できない」
声が低くなる。
「どうせまた途中で投げる。どうせ続かない」
日下部は、少しだけ前に身を乗り出す。
「それ、信用できなくなったんじゃなくて、信用しないようにしてるだけだ」
「……何が違うんだよ」
「期待しなきゃ、失望もしない」
静かな声だった。
「頑張れなくなった自分を見下してるようで、実は、守ってる」
相談者の喉が動く。
「守ってる?」
「“これ以上失敗しないように”な」
一拍。
「頑張れない時期ってさ
評価じゃなくて、状態なんだよ」
「状態……」
「風邪ひいた時に“前は走れたのに”って責めないだろ」
「……でも、心はさ」
日下部は頷く。
「心の不調は、目に見えないから気合い論で殴りがち」
少し言葉を選んでから続ける。
「今の自分を見下してる限り
回復しても、スタートに立てない」
相談者は、長く息を吐いた。
「……じゃあ、どうすればいい」
日下部は、即答しなかった。
「“前の自分”と比べるの、やめろとは言わない。無理だから」
その前提が、少し救いだった。
「ただ、今の自分に、同じノルマ課すな」
「……甘くならない?」
日下部は首を横に振る。
「回復期に全力要求する方が、雑だ」
少しだけ視線を逸らす。
「頑張れなくなった自分を見下すのは簡単だ」
戻ってくる視線。
「でもな。そこで立ち止まってるのも、自分だろ」
責めていない。でも、逃がしてもいない。
「嫌いでもいい。情けなく思ってもいい」
一拍。
「ただ、“価値がない”までは決めなくていい」
相談者は、何か言いかけて、やめた。
代わりに、静かに頷く。
「……前の自分に戻れなくても」
日下部は答える。
「今の自分から、やり直せる」
それは励ましでも、説教でもなかった。
現実的で、不器用で、だからこそ残る言葉だった。
相談室の時計が、小さく音を立てる。
時間は進んでいる。