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あの夜のことを、遥はどこか現実ではないものとして記憶している。
蓮司の部屋、古びたマンション、埃っぽいソファ。低い照明に照らされた空間に、ふたりの影が沈む。
蓮司は何も問わなかった。ただ遥が、そこに座ったのを見て、煙草に火をつけた。
煙が、淡く空間に滲んでいく。その沈黙の中で、遥はゆっくりと口を開いた。
「抱いてよ」
声は震えていたが、それを押し隠すように言葉は平坦だった。
蓮司は少しだけ眉を寄せ、目を細めた。それから、煙を吐き出す。
「お前、……またあいつと喧嘩したの?」
「違うよ」
遥は笑った。自分でもわかる、壊れたような笑いだった。
「たださ……俺には、そうしてもらえる理由が、あるでしょ? 全部、そうやって帳尻合わせてきたんじゃないの?」
蓮司は応えず、ただ黙って遥を見ていた。
その目は、あまりにも冷たく、あまりにも優しかった。
“すべてを知っている者”の目だ。
沙耶香のことも、日下部とのことも、遥の脆さも、ずっと前から。
「……バカだな、お前」
低く吐かれたその言葉は、呆れとも蔑みとも違った。
それでも蓮司は立ち上がり、遥の顎にそっと指を添える。
「本当に、いいのか?」
遥は頷いた。
それは自分への罰であり、日下部への裏切りであり、蓮司への試しだった。
この選択が、壊してしまうと知っていても、遥はもう止まれなかった。
肌が触れた瞬間、遥の身体はひどく冷たかった。
なのに、どこか安堵していた。
これで、やっと終わる。
すべてを壊せば、日下部も、自分も、あの曖昧な絆から解き放たれる。
蓮司は、優しくはなかった。
ただ静かに、何も言わず、遥を受け入れた。
まるでそこに意味などないかのように。
終わった後、蓮司は煙草に火をつけた。
「……何も、変わらないよ」
遥は黙っていた。
その横顔を、蓮司は見ていなかった。
その夜を境に、遥の中の何かは明確に変わっていた。
日下部の目を見ることができない。
自分が穢れたという感覚ではなく、“壊した”という確信のせいで。
そして何よりも――
どこかで、日下部がすべてを知ってしまえばいいと、そう思っていた。