テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
部屋の空気は、重くもなく、冷たくもなかった。ただ、どこか――虚無だった。遥は黙って立っていた。ドアを閉める音が、ゆっくりと後ろで響いた。蓮司はもう言葉をかけない。互いに言うべきことなど、最初からなかった。
「……いいよ、別に」
遥がそう言ったとき、その声には何の熱もなかった。ただ、自分自身への投げやりな許容だけがあった。
振り返りもせず、シャツの裾を乱雑にまくり上げる。ベルトの金具が鳴る音がやけに耳についた。
「俺のこと、どうでもいいんでしょ?」
問いかけではない。ただの確認。
蓮司は何も答えない。ただ、その無言がすべてを肯定しているようで――遥には、それがちょうどよかった。
日下部が抱いてくれないから。優しさで触れてくれないから。じゃあ、その逆に――壊してもらおうと、遥は思っていた。
「日下部さ……、抱いてくれなかった。俺のこと、大事にしすぎて……触れてこないの」
声が震えていたのは、怒りでも悲しみでもない。むしろ、何かが剥がれていく音に近かった。
「それって、優しさなの? それともさ、俺が触れられる価値もないってこと?」
足元が揺れた気がした。立っていられなくて、ベッドに腰を下ろす。蓮司はその前に立ったまま、淡々と煙草に火をつける。その一連の動きが、遥をどこまでも遠ざけた。
「沙耶香に、言ってるんでしょ? 俺のこと。『こいつは壊れるのが楽しい』って。――知ってるよ」
それは虚勢だった。遥は、心の奥で知っていた。蓮司にとって自分は、執着すべき存在じゃないこと。
けれど――だからこそ、今夜だけは、身体の中で何かを終わらせたかった。
「……抱いてよ」
言葉が、喉を通ってしまった。
蓮司がようやく視線を落とす。その目には、欲望も怒りもなかった。ただ、いつものように、遥の弱さを見下ろす静かな冷笑だけがあった。
「いいよ。そういう役なら慣れてるし」
それが、合図だった。
蓮司の手が伸びる。温かくも冷たくもないその手が、遥の顎を持ち上げる。何もかもを見透かしている目が、真っ直ぐに遥を射抜く。
その視線すら、遥にとっては試し行動の一環だった。
『どうせ俺なんてどうでもいい』
『でも、それでも誰かに壊してほしい』
『できれば、日下部じゃない誰かに――』
その破滅的な衝動に、蓮司は何の感情も持たない。沙耶香とすべてを共有していることも、遥には分かっていた。
蓮司は沙耶香を愛している。ただそれだけで、遥に何をしても――蓮司の心には何ひとつ残らない。
だからこそ、遥は蓮司に抱かれた。
優しさも拒絶もない腕の中で、壊れていくことだけを、許されたような気がして。
それは裏切りだった。日下部への、そして何より、自分自身への。
だが、その夜、遥はようやく泣けた。
蓮司の腕の中でではない。すべてが終わった、冷え切った朝の部屋の隅で――誰にも見られず、一人きりで。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!