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――都内某所カフェ
「……ごめん、別れよう。俺、他に好きな人ができたんだ」
「えっ……ど、どうしたの? なんか急すぎない……?」
「急じゃないよ。もうずっと前から考えてた。ごめん……」
「……」
夏帆は、目の前のコーヒーをただ見つめるしかなかった。
向かいに座る、同じ証券会社に勤める恋人・伊坂駿介(38歳)は、申し訳なさそうに目を伏せている。
「本当にごめん」
「……相手は誰なの?」
「え?」
「駿介が好きになった人。私の知ってる人?」
その問いに、駿介は一瞬ためらい、視線を泳がせた。
「言って。教えてくれたら別れてあげる」
駿介は戸惑いを浮かべたが、観念したように口を開いた。
「……結城さんなんだ」
「!」
夏帆は息をのむ。
結城紗英(26歳)――
四期後輩の彼女は、夏帆と同じ課に所属している。
社内でも一、二を争う人気者で、愛らしい顔立ちに、メリハリのあるスタイル。さらに声まで可愛い。
男なら思わず守ってあげたくなるような存在で、誰からも好かれるタイプだ。
夏帆は、すぐに負けを悟った。
そして、ふうっと息を吐き、静かに言った。
「……わかったわ。今までありがとう。結城さんと幸せにね」
あまりにあっさりと別れを受け入れた夏帆に、駿介は驚いたように目を見開いた。
「え? いいの?」
「うん。心変わりしたなら、仕方ないでしょ」
「それはそうだけど……」
駿介はすぐに安堵の色を浮かべ、柔らかく言った。
「じゃあ、これからは同じ会社の同僚として、今まで通りよろしく頼むね」
「わかった。じゃあ、私、行くね」
夏帆が財布から千円札を取り出そうとすると、駿介が手を伸ばして制した。
「いいよ。ここは払うよ」
夏帆は思わず目を瞬いた。
いつもは割り勘が当たり前なのに、珍しく駿介が払うと言ったのだ。
「そう。じゃあ、ごちそうさま」
最後に笑顔を向けると、夏帆は颯爽と店を出た。
その後ろ姿を、駿介はほっとしたように見送った。
カフェを出て表通りに出ると、日曜の午後の日差しがやけに眩しく感じられた。
このあと予定のない夏帆は、近くの公園へ向かった。
駅で駿介と再び顔を合わせるのは避けたい。だから、しばらく時間を潰すことにしたのだ。
都会のオアシスとも言えるその公園には、休日を楽しむカップルや家族連れが溢れている。
さきほどまで颯爽と歩いていた夏帆は、空いているベンチに腰を下ろし、ようやく息をついた。
ハイヒールでできた靴擦れをそっと押さえながら、ぽつりとつぶやく。
「これからどうすればいいの……。駿介を寝取った女が同じ職場だなんて……」
急に自分がひどくみじめに思えてきた。
藤田夏帆は、大手証券会社で営業事務として働いている。
先日、30歳を迎えたばかりだ。
それなのに、結婚まで考えていた恋人に突然振られたのだ。
心の整理なんて追いつくはずがない。
(今まで、なんのために駿介に合わせてきたのよ……。ファッションもメイクも、ハイヒールもブランド物も、“上質な物をまとった女が好き”って言うから無理して揃えたのに……。自分好みの女に変えたいなら、プレゼントの一つでもくれればいいのに、駿介はいつも自分にばかりお金を使って、私には高価な物なんて一度もくれなかったじゃない! あー最悪……)
本来、夏帆は高価なブランド物にも流行のファッションにも興味がなかった。
だが、社内一の優秀なトレーダーである駿介は雑誌に出てくるような女性を好み、いつもこう言っていた。
「だらしない女と付き合ってるって思われたくないから、いつもきちんとしてろよ」
純粋な夏帆は、恋人に恥をかかせたくなくて従順に従ってきた。
しかし最近、その言葉に少しずつ疑問を抱き始めていた。
「こんなことなら、食べたいもの食べて、行きたいところに旅行して、好きなことにお金を使えばよかった! あ~、もったいない!」
思わず大きな声が出てしまい、周囲の人々が一斉に振り返った。
恥ずかしくなった夏帆は、慌てて立ち上がろうとする。
そのとき、携帯が鳴った。
学生時代からの親友・杏からだった。
出かける前、駿介に呼び出されたことを杏に伝えていた。
ただならぬ気配を感じた杏は、心配になって電話をかけてきたのだ。
「で、どうだった?」
「最悪……。やっぱり寝取られてた」
「ええっ! 誰に?」
「四期後輩の子。前からちょっと怪しいと思ってたんだ」
「前に言ってた子ね。やたら駿介さんに色目使ってるって……」
「そう。見事にやられたわ~。やっぱり夜勤のある仕事の男は浮気しやすいんだね」
「……ったく、駿介さんもそんな色仕掛けにころっと堕ちるなんてバカだね。で、別れたの?」
「うん、きっぱり別れたよ」
「切り替え早っ! でも、ふふ……今の夏帆、なんか昔に戻ったみたいで、ちょっといいよ」
「え? そう?」
「うん。駿介さんと付き合いだしてからのあんた、人格変わってたから。少しほっとした」
長い付き合いの親友からそう言われ、夏帆は思わず息をのんだ。
「私……そんなに変わってた?」
「変わってたよ~。常に自分を押し殺してる感じ? 自分の気持ちより駿介さん優先って感じでさ」
「そうかな……。ちなみに、昔の私ってどんな感じだった?」
「何忘れてんの、自分のことでしょ! 夏帆は昔から自由人だったじゃん」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。突然旅に出たり、突拍子もないファッションしたり、人の目なんて全然気にしないタイプだったじゃん」
「あ、たしかに……」
「それなのに最近は、人からどう見られるかばかり気にしててさ。ちょっと心配してたんだよ」
“心配してた”という言葉が胸に刺さり、夏帆は自分でも気づかなかった変化を思い返した。
「で、これからどうするの? 駿介さんも相手の女も同じ職場でしょ? 会社行ける?」
「そうなんだよね~。いっそのこと辞めちゃおうかな」
「環境を変えるのはありだと思うけど、私たちもう30だよ。行動するなら慎重にしないと」
「分かってる。でもさ、なんか今、すごく羽ばたきたい気分なんだ」
「羽ばたく?」
「そう。振られたのはショックだけど、なんかチャンスな気がして……。どうせなら一から全部やり直したいっていうか」
「気持ちはわかるよ。30の節目はいろいろ考えちゃう年頃だしね。ただ、思いつきで動くのはやめなよ」
「分かってる」
「来週、飲みに行く?」
「行く行く。そのとき愚痴全部聞いて!」
「了解! じゃあ、あんまり落ち込まないようにね。また連絡するよ」
「うん。ありがと」
電話を切ると、夏帆はふうっと息を吐いた。
杏から電話が来なければ、きっと泣いていたかもしれない。
だが話しているうちに、込み上げていた涙はすっかり引いていた。
(あれ? 振られたのに私、意外と平気?)
胸の奥に、少しだけ余裕が広がる。
一年半付き合った駿介との関係は、最初の半年こそ盛り上がったものの、最近はすっかりマンネリ化していた。
恋のトキメキとはほど遠く、惰性で続いていたと言ってもいい。
だから今、悲しみよりも開放感の方が大きいのかもしれない。
「いっそのこと、会社辞めちゃおうかな……」
ぽつりと漏れた本音は、思った以上に胸にしっくりきた。
実は、駿介と付き合う前、夏帆は転職を考えていた。
けれど交際が始まると、その思いはいつの間にか霧のように消えていった。
会社を辞めて、あの二人に会わずに済むのなら――
どんな苦労が待っていても、今よりずっと気が楽だと思えてしまう。
「よしっ、決めた! 辞めよう! この際だから家も引っ越しちゃえ!」
駿介に言われて引っ越した、彼の家の近くにある高級住宅街のマンションは、家賃も物価も高く、夏帆にはどこか息苦しかった。
この際、多少古くてもかまわない。
物価が安くて家賃も手頃な場所に引っ越したい――夏帆は心からそう思った。
声に出した瞬間、自分が本当に望んでいた生活が、ようやく輪郭を持って浮かび上がってきた気がした。
「うじうじしてても仕方ない。帰りに不動産屋の物件情報でも見て帰ろうっと」
そうつぶやき、立ち上がろうとしたそのとき――
「不動産屋なら、信頼できるいいところを紹介してあげようか~?」
突然、背後から声が飛んできた。
夏帆が驚いて振り返ると、一人の男性がベンチの上で身を起こしたところだった。
コメント
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この切り替えの早さ!大好き💕です。夏帆ちゃんのその後が気になります✨
一年半も無理して相手に合わせてた事を親友杏ちゃんに諭してもらった夏帆ちゃん✨ 自分より彼女を下に見て挙句社内浮気する男と🗑️女とはキッチリ決別する覚悟を決めた女性は強くて美しい🤩✨✨ 不動産紹介する彼がゆるふわ男かな⁉️🤭
うんうん🙂↕️悲しかった!切ないでも吹っ切れた貴女が素敵です!まだ30じやないですかこれからだよ!明日からの楽しみ増えました、ありがとうございます♪😊