チャイムが鳴り終わり、教師が入ってきた。
「席につけ。……はい、教科書三十二ページを開いて」
誰も遥を助けることはなかった。びしょ濡れのまま机に突っ伏しているのを、教室中が笑いを含んだ目で眺める。教師も一瞬視線を止めたが、何も言わず黒板にチョークを走らせた。
「おい、ページめくれよ、雑巾」
後ろから小声が飛ぶ。遥は手を動かそうとするが、濡れた袖が重く、震える指先はうまく紙をつかめない。
「何してんの? 早くしろよ。あーあ、ページも水で破れそう」
「ほんと使えねーな」
くすくす笑いが後ろから漏れ、前の席の生徒がわざと鼻をつまんだ。
「臭いがやばい。芳香剤でも足りねーわ」
「先生ー、教室が臭いんですけどー!」
クラスがどっと笑う。教師は振り返ったが、ただ一言。
「静かにしなさい」
その声は、遥に向けられたものではなかった。
鉛筆を握る手が滑り、机に落ちる。拾おうとして前屈みになると、誰かが後ろからわざと椅子を蹴った。
「おっと、また水こぼれるぞ」
「雑巾タイム、スタート!」
遥は震えながら鉛筆を拾い上げるが、笑い声が止むことはなかった。
ページを開こうとする度に、濡れた指で紙がふやけ、角が破れかける。
「うわ、最悪。教科書も雑巾化してんじゃん」
「家に帰って干せば? 便所の匂いごと」
遥は声を出さなかった。ただ俯いて、冷たさに震える身体を抱きしめるようにしてじっとしていた。
――お願いだから、もう誰も触れないでほしい。
そう祈ることしかできなかった。
だが、その願いは叶わなかった。
後ろから誰かが水滴のついた髪を指でつまみ上げ、わざと前に垂らした。
「まだ濡れてんぞ。ほら、ノートにしみてんじゃん。雑巾としては合格だな」
教室の笑い声はまた弾け、授業の声をかき消した。







