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「あなたが黙った一日一日で、私がどれだけ自分の手を疑ったと思ってるの。記録針を持つたびに、また何か書き換えられるんじゃないかって、何度も確かめた。母のことまで隠されて、鏡に狙われて、それでも仕事だけは捨てないようにしてきたのに」
視界が滲む。情けないと思うのに、涙は止まらない。
「私は、あなたにだけは言ってほしかった……」
最後のところで声が折れた。
ヴィットリアーナが、ぎゅっと拳を握る。白い手袋の指先が震えていた。
「ごめんなさい」
彼女は言った。
「怖かった。正しいことを言った先で、あなたごと消されるのが怖かった。私まで外へ出されたら、もう中の文書へ触れられなくなるのが怖かった。だから、黙って中に残るほうを選んだ」
その告白は、聞けばすっきり許せるようなものではなかった。
むしろ余計に腹が立った。そんな理屈で置いていかれたのかと思うと、今でも胸の奥がひりつく。
「最低」
ロビサは涙声のまま言った。
「本当に、最低」
「ええ」
「私、まだあなたが嫌い」
「そうでしょうね」
ヴィットリアーナはそれでも目をそらさなかった。取り繕わないその顔を見ていると、かえって昔の彼女を思い出す。正しい姿勢で立ちながら、叱られる前の子どもみたいに指先だけ落ち着かなくなる癖。今も同じだ。
「でも」
ヴィットリアーナが息を吸う。
「今度は黙らない。家にも、上にも、監察院にも。あなたの前でも、もう黙らない。三年前にできなかったことを、今さらでもやる」
ロビサは泣きながら笑いそうになった。
ずるい言い方だと思う。遅すぎる。綺麗ではない。けれど、いちばん聞きたかった言葉でもあった。
「今さら、って自分で言うのね」
「事実だから」
「可愛げがない」
「あなたにだけは言われたくないわ」
その返しがあまりにも昔のままで、ロビサはとうとう泣きながら怒鳴った。
「なら最初からそうやって来なさいよ!」
避難室に、ひときわ大きな声が跳ねた。
次いで、誰からともなく息が漏れる。笑いではない。けれど、詰まっていたものが少しだけ流れた音だった。
ヴィットリアーナはゆっくり近づき、ロビサの手前で止まった。抱きしめてもいい距離ではない。まだそこまでは行けない。だから彼女は、自分の手袋を外して、素手のまま右手を差し出した。
「完全に許されなくていい」
静かな声だった。
「でも、同じ側に立つことだけは、認めて」
ロビサはその手を見た。
昔、学院の帰り道に同じように差し出されたことがあった。雨の日に転んで膝を擦りむいたとき。試験で満点を取って、嬉しいのに照れてしまったとき。あの頃の全部が一緒に喉へ込み上げてくる。
すぐには取れなかった。すぐに取ってしまうのは、これまでの痛みを軽くするみたいで嫌だった。
だから、ほんの数呼吸ぶんだけ待ってから、ロビサはその手を握った。
「……今度は」
自分の声がまだ少し震えている。
「今度は、本当に黙らないで」
「ええ」
「私も黙らない」
「知ってる」
握った手は、思ったより冷たかった。外を走ってきたせいだろう。ロビサは手を放したあと、エナシェのほうを向く。
「鍋、まだありますか」
エナシェは鼻を鳴らした。
「仲直り未満でも腹は減るものよ。あるわ。嫌い同士の分までね」
「嫌い同士ではない」
ヴィットリアーナが反射的に言い返す。
ロビサもほとんど同時に口を開いた。
「今はまだ半分くらい嫌いです」
その食い違いが妙で、今度こそ避難室に笑いが広がった。
エナシェは新しい椀へ鍋をよそい、ヴィットリアーナへ渡す。彼女は礼を言って受け取り、慎重に一口飲んだ。熱さに目を瞬かせる仕草が、監察院の鉄面皮より、ずっと人らしく見える。
レドルフが感慨深げに頷く。
「いい。実にいい。崩落の地下、湯気立つ鍋、涙の和解未満。観客がいないのが惜しい」
「いたら蹴り出します」
ロビサが言うと、彼は満足げだった。
やがて、食べ終えた椀の底が見え始めるころ、モンシロが避難室の床へ簡単な地図を描いた。ヴィットリアーナは監察院から持ち出した写しと記憶を重ね、王城側の動きを説明する。リュバは残りの針と石の数を数え、ハディジャは迷の風向きから通れる穴を見当づける。
さっきまで別々の方向を向いていた手が、今は同じ床の上へ集まっていた。
ロビサはそれを見下ろしながら、椀の残り香をそっと吸い込む。
地下の避難室だ。崩落の向こうで、都はまだ危ない。蒼い鏡の開封も止まっていない。何ひとつ片づいていない。
それでも、さっきまでよりずっとましだった。
温かい鍋があって、怒鳴り合ったあとに残る手の感触があって、誰かの沈黙を今度はそのままにしないと決めた声がある。
扉の向こうで、迷の風がまた鳴った。
だがその音は、もうさっきほど冷たくは聞こえなかった。
【終】
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#現代ファンタジー
るるくらげ