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#現代ファンタジー
るるくらげ
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迷の避難室を出てから地上へ戻るまでに、三度、足場の悪い石段を上った。
最後の段差を越えたとき、ロビサは夜霧の都がいつもの色を失っていることに気づいた。
空が、青かった。
夜明けの青ではない。月明かりの青でもない。もっと冷たく、磨き上げた刃のような光が、王都ルクスバールの上空いっぱいに張りつめている。雲のように見えたものは鏡面だった。大聖堂の尖塔を中心に、巨大な円形の鏡像結界が空へ開いている。街路の石畳も、屋根の瓦も、歩く人々の顔も、その薄青い光に濡らされ、どこか現実味を失っていた。
「……早すぎる」
ヴィットリアーナが低く言った。
「正式開封は明朝のはずよ」
モンシロが奥歯を噛む。
「ウマルか」
「承認文書の写しを捏造したのでしょうね」
ヴィットリアーナの返答には怒りより先に、諦めを噛み潰した苦味があった。
「待っていれば、まだ止められる段階だったのに」
待っていれば。
その言葉が、ロビサの胸に冷たく刺さる。
この都では、待つたびに遅れる。忘却も、改竄も、鬼害も、待ってくれない。
大通りへ出たとたん、異変ははっきりと形を取った。
花屋の前で泣いている少女がいた。足元には白い花束が落ちている。傍らの母親らしい女は、その花束を見下ろしたまま、困ったように眉を寄せていた。
「どうして泣いているの」
「だって、お兄ちゃんの花なのに」
「お兄ちゃん?」
母親は戸惑い、少女の肩を撫でる手を止めた。
「うちに、そんな子いたかしら」
ロビサの背筋が凍る。
七日かけて進むはずの忘却が、結界の下では一気に揺さぶられている。
名を失いかけた魂が、迷から引きずり上げられ、その反動で生者の記憶まで削られているのだ。
通りの別の場所では、男が自分の妻の名を思い出せず、必死に額を押さえていた。菓子屋の主人は、常連だったはずの少年の顔を見て「どこの子だ」と怪しんでいる。記憶の綻びは一人ひとり小さいのに、都じゅうで同時に起きれば災厄になる。
レドルフが蒼白な顔で呟いた。
「舞台の幕が上がる前に、客席ごと劇場が崩れている」
「詩的に言ってる場合じゃない」
ニッキーが言いながらも、すでに帳面を開いていた。混乱地点と症状を書きつけている。
「局へ戻って職員を散らす。忘却の進行が速い区域を記録しないと、誰が消えたのかさえわからなくなる」
だがそのときだった。
ハディジャが足を止めた。
彼はさっきから妙に静かだった。迷を抜けるあいだも軽口が少なかったが、地上へ出てからは一度も口を開いていない。ロビサが振り返ると、彼は自分の右手を見下ろしていた。第六話で一度浮かび上がった黒い封印文字が、今は手の甲だけではなく手首から肘へ、蔓のように這い上がっている。
「ハディジャ」
呼びかけると、彼は遅れて顔を上げた。
いつもの目だ。だが、その奥にもうひとつ別の光が揺れていた。遠い場所からこちらを覗くような、古びた痛みの光だった。
「聞こえてる」
声はハディジャのものだった。
けれど語尾の沈み方が、ほんの少し違う。
「うるさいくらい聞こえてる。空の鏡が鳴りっぱなしだ」
彼はこめかみを押さえた。指の隙間から、息が荒く漏れる。
「……あいつが、喋ってる」
「百年前の残響?」
ヴィットリアーナが問う。
「残響っていうには、ずいぶん図々しい」
ハディジャは笑おうとして失敗した。
「花嫁を差し出せば終わる、って。何度も何度も。同じことばっかりだ」
ロビサの胸の内で、冷たいものが落ちる。
百年前の青年本人ではない。そう頭ではわかっていても、鏡に封じられた核が人の願いの形を真似て囁くのだとしたら、いちばん甘く、いちばん危険な言葉を選ぶに決まっていた。
「大聖堂へ行く」
モンシロが即座に決めた。
「局へ戻る班と分ける。ニッキー、リュバ、エナシェは局へ。各現場へ記録官を回せ。レドルフは街角で名を呼び続けろ。忘れられた者を一人でも多くつなぐ」
「任されよう」
レドルフは震える息を整え、無理にでも芝居がかった笑みをつくった。
「こんな夜ほど、言葉の役者は忙しい」
「ヴィットリアーナは私と来て」
ロビサが言う。
「監察院の経路がいる」
「ええ」
誰がどこへ向かうかが決まっていくなかで、ハディジャだけは動かなかった。
彼の手の黒い文字は肩口まで伸び、首筋に細い影を描いている。まるで体の内側から、誰か別の書記が勝手に文字を書き足しているみたいだった。
「ハディジャ」
ロビサは一歩近づいた。
「歩ける?」
彼は返事の代わりに、ゆっくり腰の縄を解いて差し出した。
「俺を縛れ」
【続】