テラーノベル
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相談室の扉が開いたとき、遥は手元のファイルから顔を上げた。
少女は、小さな音も立てずに席に座った。椅子の背もたれには触れない。膝の上で両手を握り、うつむいたまま、かすかに唇が動いた。
「……声が、出ないんです」
遥は頷いた。それだけで急かさず、言葉を待つ。
「しゃべれるんです、本当は。でも……教室で、何か言おうとすると、喉が……詰まって」
「いつから?」
「小学校のとき。発表を間違えた日があって……みんな笑って、先生も笑って。そこから……声が出せなくなった」
「今も?」
「はい。でも親は“甘え”って言います。クラスでは“無視していいやつ”って決まってるみたいで……。昨日、教室の端で転んだときも、誰も見てませんでした。机の角で手、切ったのに」
少女が差し出した指には、新しい絆創膏。中指の先が赤く腫れている。
「……俺は、声を出したことで地獄を見たことがある」
少女が、初めて目を上げた。遥の目は真っ直ぐだった。
「言い返したんだよ。兄に。そしたら……家の中全部、無音になった。次に聞こえたのは、自分の頬がはじける音だった」
少女は黙ったまま、遥を見つめていた。彼の話に、言葉を重ねようとはしなかった。ただ、遥の話の“続きを待つ”ように。
「声を出しても出さなくても、壊れる時は壊れる。でもな……誰かに聞かせるためじゃなくて、自分のために声を持っててもいい。自分の中だけに」
「……自分の、ために」
「そう。出さなくてもいい。でも、持ってろ。それだけで戦ってるってことだから」
少女の肩が、少しだけ落ちた。強張りが、緩んだ。
「じゃあ……私、今日だけ黙って帰ってもいいですか?」
「もちろん。ちゃんと、声を持ってきたからな」
少女は頷いた。扉が静かに閉まるまで、遥はファイルを開かず、ただ黙ってそこにいた。
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