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誰もすぐには動けなかった。
冗談にしては顔色が悪すぎる。だが本気にしては、目の端にいつもの無茶苦茶な笑いが残っている。
「今ならまだ自分で言える」
ハディジャは、できるだけ軽く言おうとしていた。
「階段の途中で子どもでも見つけたら、たぶん俺、そっちの声に引っ張られる。ロビサを連れて行くなとか、鏡に近づけるなとか、逆に差し出せとか。どっちへ転ぶかわからねえ。なら先に縛っとけ」
「そんなこと」
ロビサは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
大丈夫だと言えない。
彼の手が震えているのを、もう見ている。
モンシロが無言で封鬼用の細索を渡した。鬼害現場で暴れる遺骸や、瘴気に当てられた患者の手足を傷つけずに固定するための道具だ。ロビサはそれを受け取り、息を詰めた。
「……痛くしたら怒りますよ」
「怒る元気が残ってたら、まだ俺だ」
ロビサは、彼の両手首へ細索を巻いた。二重にして、逃げられないほどではなく、暴れたとき人を傷つけない程度に。結び目をつくる指が震えたのは、自分が怖いからなのか、相手が平然としているからなのか、わからなかった。
結び終わると、ハディジャは視線だけ落とし、ふっと息を吐いた。
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いではありません」
「そういう返し方してくれるうちは安心する」
大聖堂へ向かう道は、すでに半ば戦場だった。
広場には結界の青光が雨のように降り、石畳の上に薄い鏡面をつくっている。そこへ人々の影が逆さに映る。立っているはずの人影の隣を、いないはずの誰かが通り過ぎていく。消えかけた名が像だけ残しているのだ。
討鬼騎士団の一部が避難誘導をしていたが、上空を見上げる顔には明らかな動揺が走っている。命令系統も乱れていた。ウマルの独断に従っている者、疑いながらも逆らえない者、現場を優先して独自に動く者。その混線が、人々の恐怖をさらに膨らませていた。
大聖堂前の大階段では、白銀の外套を翻したウマルが、部下たちへ指示を飛ばしていた。鏡光を受けたその横顔は、英雄譚の挿絵みたいに整っている。だからこそ厄介だった。本人は本気で、自分が都を救っているつもりなのだ。
「止めなさい、ウマル!」
ヴィットリアーナの声が階段に響いた。
「正式承認のない起動は違法よ! 住民の記憶に被害が出ている!」
ウマルは振り返り、ロビサたちを見ると、驚くより先に眉をひそめた。
「監察院の書類遊びに付き合っている暇はない」
その目がハディジャで止まる。
「……やはり連れてきたか。器候補を鏡の前へ出すなと言ったはずだ」
「あなたが勝手に起動したのでしょう」
ロビサが言う。
「鏡は鬼を一掃していません。人の記憶まで削っています」
「一時的な揺らぎだ」
ウマルは言い切った。
「大局のための小さな犠牲に過ぎない。鬼を消し切れば、都は救われる」
その瞬間、広場の向こうから泣き声が上がった。
母親が、自分の子どもの名を思い出せずに取り乱している。子どもは必死に母の裾へしがみついているのに、女はその手を振り払ってしまった。
ロビサは歯を食いしばる。
「それが小さい?」
ウマルは一瞬だけ目を逸らしたが、すぐに正面へ戻した。
「救われる人数を考えろ。都そのものが落ちれば、もっと多くの名が失われる」
「名を守るために名を削るなんて、記録ですらありません」
「お前たち記録官は、いつも失ったあとの紙切れにしがみつく!」
ついに彼も声を荒らげた。
「俺は失う前に断つ。勝つ形を選ぶ。それの何が悪い!」
大聖堂の上空で、鏡像結界がごう、と鳴った。
同時に、ハディジャが膝をついた。
黒い封印文字が一気に首筋を越え、頬の下まで這い上がる。細索を巻いた手首がびくりと跳ねた。ロビサは反射的に駆け寄る。
「ハディジャ!」
彼は顔を上げた。
そこにあった目は、半分だけ別人だった。
深い井戸の底みたいな暗さ。渇ききった、百年前の痛み。
「花嫁を……」
唇が動く。
「渡せば、終わる。今度こそ。今度こそ、あの子を……」
声が途中から二重になった。
ハディジャの声と、そこへ重なる知らない青年の声。鏡の奥で何百回も同じ後悔を反芻してきた響き。
ロビサは細索を握ったまま、揺れる彼の前へ膝をついた。
「違う」
言い聞かせるように、自分へも向けて言う。
「私は誰の代わりでもない」
だが囁きは止まらない。
『今度こそ花嫁を差し出せば終わる』
『名をひとつ捨てれば、都は残る』
『お前が渡せ』
ハディジャの体が前へ倒れかけた。ロビサは両肩を掴んで支える。細い索だけでは足りない。力では勝てない。なら――
記録するしかない。
【続】
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#現代ファンタジー
るるくらげ