テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
なおゆ
玄関の扉が開く音は、いつも同じだった。
けれど、その音の先にある空気は、澪継にとっていつも違った。
「ただいまー」
春真の声が先に入る。
明るい。軽い。家の中の空気に自然に溶けていく声。
「おかえり、春真。今日遅かったじゃない」
母の声がすぐに返る。
柔らかい。
少し笑っているのが分かる声。
「部活。腹減った」
「ちょうど良かった。好きなやつ作ってあるよ」
そのやり取りを、澪継は半歩遅れて聞いている。
「……ただいま」
自分も言う。
同じ玄関で。
同じタイミングで。
でも。
「……」
返事は、ない。
聞こえていないわけじゃない。
分かっている。
ただ、返す必要のある声として扱われていないだけだ。
靴を揃える。
春真の靴の隣に、自分の靴を置く。
同じ形。
同じサイズ。
でも、並び方だけで何かが違って見える。
リビングに入る。
テーブルには、もう皿が並んでいた。
春真の前には、大きめの器。
湯気の立つスープ。
肉料理。
彩りのあるサラダ。
澪継の席にも皿はある。
ある、けれど。
量が違う。
目に見えて。
「……」
見ないふりをする。
もう慣れている。
数えない。
比べない。
そう決めてきた。
「春真、今日の試合どうだった?」
父が新聞から顔を上げる。
「まあまあ。俺、結構点取った」
「さすがだな」
笑い声。
母も笑う。
「やっぱり春真はすごいね」
その言葉が、部屋の中心に置かれる。
自然に。
当然のように。
「……」
澪継は箸を持つ。
何も言わない。
言う場所がない。
「澪継」
突然、父の声。
顔を上げる。
「……はい」
「お前、最近学校でどうなんだ」
心臓が一瞬だけ強く打つ。
「……普通」
反射的に答える。
一番安全な言葉。
「普通ってなんだ」
少しだけ、声が低い。
問いというより、詰問に近い。
「……」
言葉が詰まる。
何を言えば正解なのか、分からない。
「春真みたいに部活もしてないし、友達も多いわけじゃないだろ」
淡々と言われる。
悪意を隠さない声。
「……」
黙る。
否定しても意味がない。
「せめて勉強くらいちゃんとしろよ」
父の視線が落ちる。
「返事は?」
「……はい」
小さく答える。
それで終わる。
春真のときは会話。
自分のときは確認。
同じ言葉のやり取りでも、温度が違う。
食事のあと。
「春真、これ切ってくれる?」
母が笑いながら言う。
「いいよ」
自然に立ち上がる。
包丁を持つ。
慣れた手つき。
「助かるー」
その横を、澪継は黙って通り過ぎる。
「あ」
母の声。
振り返る。
「澪継、皿洗っといて」
言い方は軽い。
でも、お願いじゃない。
決定事項。
「……うん」
短く返す。
キッチンの水音。
皿を洗う。
泡が指に絡む。
リビングからは笑い声。
春真の話。
部活の話。
クラスの話。
人気者の話。
澪継の耳にも届く。
届くけれど、そこに自分の入る余地はない。
「……」
皿を洗いながら、昼の言葉を思い出す。
“つまらない”
“合わせればいい”
どこまで。
何に。
誰に。
部屋に戻る前。
廊下で春真とすれ違う。
「……今日さ」
春真が言う。
「何」
「なんか元気なくね?」
軽い声。
悪意はない。
ただ、気づいただけの声。
「……普通」
また、その言葉を使う。
「普通って便利だな」
春真が少し笑う。
冗談のつもりだろう。
でも。
「……」
澪継は少しだけ止まる。
「……便利だから」
小さく返す。
春真の表情が少しだけ変わる。
「……そっか」
それだけ。
踏み込んではこない。
部屋。
ドアを閉める。
鍵はない。
ベッドに腰を下ろす。
制服の袖を見つめる。
今日一日で、何度“普通”と言っただろう。
学校で。
家で。
春真に。
父に。
自分に。
「……」
普通。
それは守るための言葉。
でも同時に、
何も伝えないための言葉でもある。
スマホが震える。
画面を見る。
坂本からのメッセージ。
今日、なんかあった?
短い一文。
それだけ。
でも。
「……」
指が止まる。
春真でもない。
家族でもない。
学校の外側でもない。
少しだけ違う場所から来た言葉。
澪継は、しばらく画面を見つめる。
それから、ゆっくり打ち込む。
……別に
送信しようとして、止める。
消す。
打ち直す。
少しだけ疲れた
送る。
数秒後。
そっか。明日ノート見せる
それだけの返信。
慰めでもない。
深掘りでもない。
でも。
「……」
少しだけ、息が抜ける。
同じ屋根の下にいても届かない声がある。
逆に、
遠い席からなら届く声もある。
その違いが、今日はやけに鮮明だった。
コメント
1件
うわあ……読んでて胸がぎゅっとなりました。同じ玄関、同じ食卓なのに、澪継だけが「そこにいない扱い」を受けてる感じがひしひしと伝わってきました。特に「返す必要のある声として扱われていない」って一文が刺さります。春真との温度差が日常の細かい描写で描かれていて、無視とか暴力じゃないけど確かに存在する“家族内の格差”がリアルでした。最後の坂本からの「明日ノート見せる」、それだけなのに救いになるのがまた切ないですね。