翌朝大輔は大学病院にいた。
今日は大きな手術の予定はなく午前中は病棟回診とカンファレンス、午後は外来の当番の日だった。
大輔は医局の窓際でコーヒーを淹れると自分の席へ戻りパソコンを開いた。
その時先輩医師の長谷川(はせがわ)が医局に入って来て大輔に言った。
「岸本先生、ナースステーションでえらい噂になってるよ」
「噂?」
大輔は怪訝な顔をする。
「昨日五条のホテルの前にいた?」
大輔は昨日の事を思い返す。
「ああ、はい、いました。それが何か?」
瑠璃子をホテルまで送って行った時の事を言っているのだろうと大輔はピンとくる。
「だから君が女性と一緒にホテルの前にいたのを目撃したって玉ちゃんが大騒ぎしているんだよ」
長谷川が言った『玉ちゃん』とは外科病棟に勤務する看護師の玉木(たまき)みどりの事で、通称院内拡声器と異名がつくほど噂話が大好きなナースの事だった。
「でもあれはそんなんじゃないですよ」
大輔は迷惑そうに言う。
狭い田舎町で暮らしていると常に誰かに目撃され思わぬ噂を流される。大輔はこの町が好きだったがそういう田舎町特有のマイナスな部分にはいささかうんざりしていた。
「そうなの?」
長谷川は「なんだつまらない」といった顔をして聞き返す。そして続けた。
「まぁ大輔先生は独身なんだし女性と一緒にいたって何の問題もないんだけどね」
長谷川は大輔の肩をポンと叩いて笑いながら医局を後にした。
病棟回診の時間が近付いて来たので大輔は不機嫌な顔のままナースステーションへ行く。
するとテーブル周りに集まりヒソヒソと噂話にふけっていたナース達が一瞬にして散った。そして何事もなかったようにそれぞれの持ち場へ戻った。
噂の発信源である『玉ちゃん』こと玉木みどりは大輔の姿を見るなり慌てて叫んだ。
「402号室村田さんの消毒に行ってきまーす」
玉木はそそくさと姿を消す。
その後ろ姿を不機嫌な表情で見つめながら大輔は低く唸るように言った。
「病棟回診始めます」
その声に大輔担当の若い看護師は泣きそうな顔をしながら「はいっ」と返事をすると慌てて後をついて行った。
大輔はこの大学病院で心臓血管外科医をしている。大輔の外科医としての腕は札幌や東京の名医にも引けを取らないとかなり評判がいい。
しかし大輔はいつも無口で不愛想なのでナース達からは敬遠されている。
特に大輔は仕事に関するミスには厳しく新人ナース泣かせとしても有名だった。
だから看護師達は大輔の事を密かに『デスラー』と呼んでいる。そう、あの『宇宙戦艦ヤマト』のデスラー総統だ。
アニメの中では冷徹で独裁者でもあるデスラーに大輔を重ね合わせていた。
同僚達からは敬遠されている大輔だが、患者からの評価はとても高く絶大な信頼を得ている。
大輔の外科医としての能力は道内で1~2を争う腕なので、わざわざ大輔を指名してこの病院へ転院してくる者も後を絶たない。
そして大輔はこの日の病棟回診を始めた。
「安藤さん、具合はいかがですか?」
大輔は60代の女性患者に優しく声をかける。
「先生おはようございます。いやー先生に手術をしてもらったから調子はバッチリですよ」
「それは良かった。でもまだあまり無理はしないで下さいね。ゆっくり少しずつ体力を取り戻しましょう」
「はーい」
女性患者はニコニコと嬉しそうだ。
その後も大輔は病棟を回りながら受け持ち患者を一人ずつ丁寧に診察していった。
一方瑠璃子はホテルでの朝食を終えてからすぐに不動産屋へ向かった。
ずっとメールでやり取りをしていた担当者に挨拶をした後すぐに車で内見へ連れて行ってもらう。
候補に上がっていた4つの物件を全て見た瑠璃子は、その中の1つがとても気に入った。
瑠璃子が気に入った部屋は5階建てのマンションの3階にある。築年数は5年程だが新築のように綺麗だった。
部屋は希望していたオール電化で敷地内には入居者専用の駐車場もある。そして来客用の駐車場まで完備していた。
瑠璃子はなるべくなら病院関係者が少ないマンションがいいと希望を出していたがそれも見事クリアされていた。その代わり病院からは少し離れている。しかし車通勤を予定している瑠璃子にとって問題のない距離だった。
瑠璃子は即決でその物件を契約した。
鍵の引き渡しは2日後なのでホテルにはあと2泊する必要がある。部屋が無事に決まったので早速瑠璃子は引越し業者に連絡を入れた。
不動産屋を出る際、瑠璃子は担当の男性にこの辺りで良い中古車販売店はないかと聞いてみる。
すると国道沿いにある『岩見沢伊藤モータース』という店を紹介してくれたので瑠璃子は早速行ってみる事にした。
瑠璃子がすぐに行くと知った担当者は親切に車でその店まで送ってくれた。
中古車販売店の前に到着すると、瑠璃子は担当者に礼を言ってから早速販売店へ入って行った。
「いらっしゃいませ」
ちょうど外にいた40代くらいの男性が瑠璃子に声をかけた。
「こんにちは。あの、車が欲しいのですが……」
冷やかしではないとわかった男性は瑠璃子に近づくと名刺を渡した。
「店長の伊藤(いとう)と申します。で、どんなお車をお探しですか?」
「今すぐ乗れる車が欲しいのですが…来月から通勤で使うので」
「なるほど。予算はどのくらいでしょうか?」
瑠璃子はおそるおそる大体の予算を伝える。
「今すぐ乗るとなるとこれしかないかなぁ?」
店長の伊藤は店の前に停まっていたピンクのかわいい軽自動車の前に瑠璃子を案内する。
伊藤によると昨今の新車の在庫不足や納期遅れの影響が中古車市場にも出ており在庫はいつも不足気味らしい。
状態の良い中古車は入るとすぐに売れてしまうので今現在この店に残っているのはこれしかないという事だった。
瑠璃子は軽自動車で十分だとは思っていたが、車の色がピンク色だったので少し戸惑っていた。
30を目前にした女がピンクの車では痛い感じがする。
瑠璃子の心中を察した伊藤は同業者に在庫がないかを聞いてくれると言った。伊藤が電話をかけている間、瑠璃子は店内で待たせてもらう事にした。
しかし伊藤が電話で話している様子を聞くとやはり他店でも在庫はないようだ。
(これしかないならしょうがないかな? ピンク色さえ我慢すれば新車みたいに綺麗だし……)
瑠璃子は最悪の事態を見据え覚悟を決める。
あちこちに電話をかけていた伊藤は電話を切ると申し訳なさそうに言った。
「すみません、どこも同じみたいです。1台赤の軽自動車がありましたがあれよりもかなり年式が古く走行距離も長いみたいで…」
「わかりました。じゃああのピンクの車でお願いします」
そこで伊藤が笑顔になる。
「良かった。いや、実はあれは凄くおすすめなんですよ。走行距離も短くほとんど乗っていなかったようで新車に近い状態ですしね。ただ色だけネックでしてねー。でもお客様が乗って下さるならドライブレコーダーをサービスでお付けしますよ」
「本当ですか?」
「はい、そのくらいはサービスさせて下さい」
「ありがとうございます」
「あ、あとあの車にはもう既に冬タイヤがついているので交換の必要はありませんから」
「そうなんですね、良かった」
瑠璃子は得した気分になる。
「本当にあの車は運転しやすいですから間違いないです」
伊藤はニコニコしながら太鼓判を押すと早速手続きの準備を始めた。
車の納車は最短でも5日後との事だった。瑠璃子は最短の日でお願いする。
その後自動車保険等についての説明を受けてから瑠璃子は店を後にした。
瑠璃子はそのまま銀行へ行き車の代金を振り込む。
その後役所へ寄り転入届の手続きを、そして警察署へ行き免許証の住所変更を済ませた。
色々な用事を済ませているうちにあっという間に一日が終わった。
次の日、仕事が休みだった大輔は『岩見沢伊藤モータース』へやって来た。昨日瑠璃子が中古車を買った店だ。
大輔と店主の伊藤は幼馴染だった。
大輔の車に気付いた伊藤が傍に来て言った。
「よう大輔、久しぶりだな。今日はどうした?」
「ああ、今年は冬タイヤを新しくしようと思ってさ」
大輔は車を降りて伊藤にタイヤを見せる。伊藤はタイヤの溝を丹念に調べてから言った。
「そうだなぁ、もうそろそろ取り換えた方がいいなぁ」
「だよな? 注文頼むよ」
「了解。時間あるんだろう? 中でコーヒーでも飲んでけよ」
「サンキュー」
二人は並んで店の中へ入る。
伊藤がコーヒーを淹れていると大輔が言った。
「そう言えば表のピンクの車、やっと売れたんだな」
大輔はピンク色の軽自動車に「売約済み」のプレートがかかっているのに気付いていた。
あの車はかなり前からなかなか売れないと伊藤が嘆いていた車だった。
車体は新車に近くかなりいい状態なのに色がピンクなので売れなかったらしい。
人口が少ない狭い町で目立つ色の車に乗っていると行動が常に把握されてしまう。それが嫌で派手な色はなかなか売れない。
若い女性でもさすがにピンク色は避ける傾向にあるようだ。
「ああ、なんか東京から移住して来たばかりの女性が買ってくれてさ」
伊藤はそいう言いながら大輔の前にコーヒーを置く。
「東京から?」
「うん、来月からお前んとこの病院で働くって言ってたぞ。通勤に使うから早く車が欲しいんだとさ」
「へぇ……」
伊藤の言葉を聞いた大輔は、先日出会った瑠璃子の事を思い出していた。
コメント
14件
「玉ちゃん」愛すべき存在ですよね~🩷 色々大活躍な玉ちゃん大好きです😂
ヤバすぎ🤣ピンクの車で行動把握されちゃうんだ?😅💦💦💦 先生と出かける時は助手席だから別に良いか。(笑)ꉂ🤣𐤔(もう妄想☺️💭)
そうなんですよねー。更新が待ち遠しい😃